長編小説『極道デカ』一回目

首の腫瘍を切除したので、一週間休みました。今週から復帰でやんす。腫瘍は一応良性だったけど、悪性に変化する可能性はゼロではないと言われたら、何か、全てがどうでも良くなってしまったでやんす。
 今後は、今まで書きたいと思っていたけど、色々とあって書けなかったような作品をかくつもり。
 色色って言うのは、まあ、色々だけど。
 なんか、腫瘍と一緒に、目から大きな大きな鱗が剥がれたようです。
 例えば、若桜木門下にいた時は、人真似では駄目で、オリジナリティのある作品を書きなさいって言われていたの。でも、私の好きなのは、『極妻』とか『ごくせん』だから、どうしても、思うようには書けなかったの。
 でも、もう門下は1年も前に辞めたんだし、それに、悪性に転移したら、何年の命なんだから、『ごくせん』路線で良いジャンって思ったの。
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作者注・この小説はフィクションであり、現実の名称とは何の関係もありません。

長編小説『極道デカ』一回目
第一章・1
 ――二〇XX年、十月二十日
「姐さん。あんじょう、カタギの仕事、こなしてまっか? あっしは心配でいても立ってもいられねえんで、こっそり出張{ルビ=でば}ってきやした。ほんのボデーガードでやんす。おじゃまになるような真似はせんですから、安心なすって下せえ。お仕事終了したら、ホストクラブへご同行するでやんす。赤影に変装した、唐獅子組舎弟タカ」
「おいおい。余計なことをしやがって。バレたって知らねえぞ」
 自分のケータイのメールにざっと目を通した後、急いで切ってから、大きく溜息をつく。
(そう言えば、もう半年もセックスしてねえなあ……。あんな叔父貴の口車に乗せられて、デカになんぞなるんじゃなかったわい。エエイ糞。しんどいゼーー) 
 アチキは暗闇の支配するクラウンの後ろのトランクで、横になっている。
 愛用している着物の裾が乱れているが、直すこともできない。
 本当は、全神経を耳に集中していなければならないんだが、毎日の激務で、とてもそんな気力はネエ。
「良いか。身代金の運搬人が車からクルーザーへ乗り換える時に、犯人が見張っている可能性があるから、慎重の上にも慎重に行動せよ。唐マリはクルーザーが発進してから五分間は絶対にトランクから出るんじゃないぞ」
 仕事用ムービー携帯からは、叔父貴・橘警視のしつこい注意が響いている。
「ヘイヘイ。ガッテン承知でありやーーす。ラジャ」 
 表面だけは歯切れ良くお返事をして電源を切った。
「誰が、劇画の主人公みたいな顔で仕事ができるかっつうの」
 死んでいるケータイに軽く毒づいてやる。
 デカってのは、マジで激務なんだから。ホンマにサービス残業だらけの仕事やで。

 アチキの名前は橘マリであるが、唐獅子{ルビ=からじし}組のマリという意味で、叔父貴はいつも唐マリと呼ぶ。
 どうも暗に空廻りの意味をこめているようで、気に障るが、訂正する気はねえようだ。
 そのうち、しばいて止めさせたろうとは思っておるが。
 ところでアチキは、叔父貴の組織したJFBIのメンバーである。若年層で、特技のある人間で作った犯罪捜査班だ。
 警察庁長官直属の広域遊撃部隊で、日本版FBIを目指しているらしい。
 じゃーーーーーが、こんなのは表向きで、実体は、3Kの仕事をさせられる組織だ。
 二十歳のピチピチギャルがやるような仕事じゃあねえ。
 まあでも、色々と事情があってのことではある。
 そう言えば、唐獅子組の三代目姐を襲名したのも、厳しい事情があるんじゃが、愚痴は好かないんで何も言うめえ。
 世の中は事情だらけじゃ。
 しかしアチキだって、好き好んでこんなヤベー仕事を引き受けた訳じゃねえ。
 叔父貴の口車に乗せられたんだ。
「極道だって、マットーな仕事ができるんだということを、組員に教えてやらにゃあいけねえ。子分の範となるのが三代目姐の生きる道だろうが。この度、特別な部隊を組織した。大学卒でなくてもお国の役に立つような部隊じゃ。本来ならお天道様に顔向けのできねえオメエだが、今回は特別に、採用しちゃる」
 クソ頭に来る橘は、メチャ秀才で警視庁の警視をしていたが、ある日、組に来て、こうほざいたんだ。
 いつもは警察組織の中で猫をかぶっているせいか、組に帰って来たときだけは、モロ極道言葉になる。
 この言葉を聞いた時、イヤーーな物を感じたが、子分の手前もあって、行きがかりで頷いちまった。
 その上、喧嘩っ早く、殴り込みの唐マリと呼ばれていたので、身代金運搬車のトランクに入るという危険な任務をおおせつかった。
 叔父貴の口車に乗って、デカになった方もバカだけど。
 とりあえず今日の仕事はこなして、明日こそは、キッチリ仁義を切って辞めてやるぜい。
 さて、仕事に話をもどすべ。

   2

 車はクルーザーへの中継地点へ向かっている。
 誘拐されたのは萱本小夜・十七歳で、身代金の運搬人に指定されたのは母親の由香・三十七歳である。
 萱本小夜は大金持ち――年商二十億円もある宝石商――のお嬢様で、母親の由香は後妻。
 由香は宝石会社『四葉宝飾』の社長であり、自力でここまで大きくした実力者である。

 脅迫状の内容は以下である。
 ――二億円分のダイヤの裸石を持ち、今日の午後八時に、伊勢市二見浦の海岸、夫婦岩の近くにあるクルーザーに乗れ。興玉神社の先に碇を下ろしてある。運搬人は母親とする。警察には報せるな。報せたら娘の命はないものと思え。クルーザーを発進させてから後の詳しい指令は、クルーザーに乗ってから報せる。とりあえずは北に向かって航行せよ――。

 この車は二十分ほど前に、伊勢神宮側の萱本家を出発し、現在は伊勢市の二見町を走る国道四十二号線上にいる。
 運搬車の前後には覆面パトカーが数台いる。二見浦の海岸に沿って北上中で、鳥羽の方からまわり込んできた。
 海上には海上保安庁の巡視艇が配備されたが、犯人が望遠鏡で見張っている可能性もあるので近くには寄れないし、光も点けられない。漁船に偽装し、遠くから赤外線カメラで追跡しているだけである。
 巡視艇からの連絡では、二見浦の北側の海上には、不審な船舶は見当たらないとか。
 今夜は曇りだから、海上は見通しは悪いようだ。
 明日には辞めるつもりのアチキには、どうでも良い情報だが。
 叔父貴と三重県警の菊田警部の乗った車は、移動捜査本部の役割をしており、この車の数台後ろにいる。
 捜査の指揮は三重県警が執っているが、実質は叔父貴が仕切っている。
 刻々と変化する情報は、鳥羽署に設置された対策本部で一台のパソコンに集計され、その画像が全刑事の持つ端末に送られている。
 
「くり返す。車が停車してもすぐに外に出るな。いくら頭が悪くてもそれくらいは守れ。人質の命がかかっているからな」
 肝っ玉が小さくて、いつも舎弟たちの後ろに隠れて逃げ回っていた叔父貴が、うじゃうじゃと細けえ指示をだしておる。
 おっとここで叔父貴の風体をざっと言わんといかんかな?
 叔父貴の名前は橘啓介。三十五歳。
 黙っていれば仕事のできる鋭い目の男だが、仕事になると、部下に無理難題を押し付け、めがねの細いブリッジを押し上げる神経質男に変身する。
 経歴はすごい。東大出身で、元は警視庁の警視であったが半年前にJFBIを設立し、現在は警察庁の、長官直属のポストにいる。JFBIの統括責任者。
 唐獅子組から出た変り種である。
「ふん。そんなことは、充分に分っておるって。それよりも、運搬人がクルーザーに乗るのは、第一段階に過ぎネエんだよ。その後、北に向かえと命令が続いているんだからサーー」
 車のトランクで揺られながら、ガミガミ野郎に軽く毒づいてやる。
「本当の受け渡しはもっと後になるに決まってるんじゃい。だいたい身代金の運搬の途中に犯人がいるはずがないべ。犯人の登場は、九十九%、クライマックスになってからと、相場は決まっているんデエ」
 ガギ。
 ドス。
「痛エ」
 いきなり車が大きくバウンドし、おもいっきり天井に頭をぶつけちまった。
 ――少しはゆっくり運転せんかい。あほんだらがア。
 普通のシートに座っていれば、それほど揺れんのだが、トランクの中にいると、ジェットコースター以上の揺れじゃ。
 ――ホンマに、一ッペン、どついたろうかア。後妻のヤロウが。
 そう思い始めた頃、車の速度が若干落ちて、周囲の音が変わった。トンネルに入ったようだ。
 窮屈な姿勢でケータイの時刻表示を見ると、午後八時五分前であった。
 
 警視からのケータイを切って暫くすると、自分のケータイの着信ランプが点いた。
「姐さん、タカでやんす。大丈夫ですか? 第一の重要地点に接近したようですが、映像はちゃんと届いていますか? 怪我はしていないですかい?」
 スイッチをオンにすると、また舎弟のタカの潜めた声が響いてきた。
 タカは十七歳で、熱血漢で、いつもこっそり出張ってくる。今は警察車両のはるか後ろのほうからバイクで尾行している。
 JFBIの隊員・赤影の幼馴染で忍者の里で修行したことがあり、変装の天才である。
 中学の時にちょっとした事件を起こしてから極道の道にはいっちまったが。
 以前、別のシノギで、叔父貴に尾行しているところを見つかり、今度やったら殺すと言われたが、諦めない。今回はまだ発見されていないようだが。
 アチキはバカの相手はしないことにしている。庇いもしねえ。あんな奴どうなろうと、知らん。
 一方、本物の赤影兵庫は一般の車を何台か挟み、覆面パトカーから少し後ろを走っている。忍者の修行を積んでおり、犬並の鼻といくつかの特技がある。
 もう数回、一緒に仕事をしているので、不必要な連絡なんぞはしない。

   3 

「ここら辺で連絡は終了しやす。では、健闘を祈っておるです。以上」
 海辺特有の腹の底を吹き抜けるような風の唸りを交えて、タカの声が途切れた。
 犯人の指定どおりに、午後八時に、後妻は身代金入りの鞄を持ち、指定された地点に係留してあるクルーザーに乗り込む手筈になっている。
 ――となると、操縦も自分でするんかい? だとすると、運搬人がクルーザーを操縦できることを知っている人間が犯人だべさ。ふむふむ。
 もっとも、主犯は後妻のヤローっつう線もあるが。
 後妻が主犯の場合、共犯がおる。その共犯像を推理しようとしたが、もうすぐ第一の中継地点だ。
 出発前の叔父貴の注意を思いおこしてみた。
「現場に到着したらクルーザーの周囲をよーく調査しろ。一応、興玉神社には、『十月二十日は撮影で部外者は立ち入り禁止』と書いたボードを出してあるが、怪しい人間を見かけたら職質(職務質問)をかけ、逃げるようだったら、尾行しろ」
 今日の叔父貴は、普段の十倍はりきっている。
 いつもの要求だけでも、並の体力じゃあこなせねえのに、県警のデカの前だと、通常の数倍は厳しい指示をする。
"現場を取り仕切る快感"か?
 つくづく男って馬鹿な生き物だと思う。機会があったら、一回絞めてやらにゃあいかん。
 
 ケータイが入った。叔父貴からだった。
「トンネルを抜けた。お前の車が興玉神社前に到着した」
 ちょっと上ずった声が、ピーンと張った釣糸のように空気を劈いて、鼓膜に届いた。
 ほぼ同時に、ギュルッと砂を巻きこむ音を立てて、運搬車が止まった。
 慌ててパソコンのスイッチを入れ、カバーしてある黒布をかぶる。光を漏れなくするためだ。
 イヤフォーンを耳に差し込むと、聞きとりにくい女の声が響いた。
 後妻のヤローの声じゃ。
「クルーザーに乗り移って良いのでしょうか?」
 正確に言うと、後妻の声は、帽子に仕込んだ超小型の無線を通じて、対策本部に繋がっている。
 無線通信である。犯人にデジタル解析されないようにジャミングと呼ばれる妨害工作がされている。
 お断りするが、ジャムをかけた無線機じゃあねえぜ。無線をどうたらこうたらする機械だそうだ。
 アチキにゃあ分からネエから、説明は省く。
 その、ジャミングをかけられた無線は本部のコンピューターで解析され、デカたちの端末パソコンへ繋がっている。
 ケータイと違って七面倒苦えが、仕方がねえ。
 叔父貴が後妻に語りかけた。
「まずは周囲をよく見てください。知り合いの人間か、不審な人間はいませんか?」
 叔父貴の声に続き、ドアを開けて外にでた後妻の皮肉っぽい声がする。
「不審な人は誰もいません。駐車場にはカップルと、境内の入り口にも同じくビデオカメラを持った人が三人いますが、映画の関係者でしょうね」
 
 後妻の声は、キャリア・ウーマンにありがちな、事務的なものじゃ。
 一刻も早く、こんな重責はやっつけたいと思っているようにも、こんな任務くらい、商売比べたら大したことない、と思っているようにも受け取れる。
 大体、最初に見た時から、気に入らねえタイプだった。
 ほれ、良くいるべ。頭が良くて、英語もパソコンも経理もお茶の子さいさいで、プロポーションも抜群の女。
 思わずドスを抜きたくなるような、そんなタイプじゃ。
 どうせ、爺いのキャン玉を握って、結婚を迫ったに決まっているんじゃ。
 うちらは毎日、三時間睡眠でこき使われているっちゅうのに。
 ええい、シャラクセエわい。
「では、よく注意して、クルーザーに乗り込んでください。そこに次の指示があると思いますので、指示を読んでください」
 仕事モードの叔父貴が落ち着いた口調で指示を出した。
 アチキも黒布を外していると、後妻が車の扉をガシンと叩きつけるように強く閉めた。
 バシ!
 ゴギ!
「痛!」
 振動で、またしても頭をぶつけてしまったぜ。
 ――クソー。シバく相手が二人になったぜ。
 後妻は、人のことなど考えずに、そのまま、砂利と砂の混じった駐車場を歩きはじめる。
 
 今の衝撃でパソコン画面も閉じてしまったので、またしてもトランクの中は闇夜じゃ。
 暫くは辛抱し、じっと時間が経過するのを待った。
 かなり長時間経ったような気がして、腕時計を見た。
 まだ八時三分前であった。
 暗闇だとお化けが出そうで怖いので、ピアノ線のような綱を引いてほんの少しだけトランクの蓋を開けた。。
 腕時計の秒針をみながら、鼓動が次第に高まってゆくのを聞き、じりじりと出番を待つ。
 トランクの隙間から見た限りでは、後妻はパンタロン姿で颯爽と浅瀬に向かっている。
 服が水に濡れることなど気にもしないようだ。
 輿玉神社の遊歩道は、海に突き出す形でコンクリートで作られている。
 夫婦岩はその先に見え、クルーザーは遊歩道の先に碇を下ろしている。
 遊歩道の近くで見えなくなったが、じきに浅瀬に歩いて入って、クルーザーに乗り移るはずである。
 最高にイケスカネエ女だが、何かあったら、守るフリくらいはせねば、なるまい。 
 
 今日の午後、JFBI三重県警から要請を受け、急遽、飛行機で駆けつけた。
 鳥羽署での打ち合わせを終え、萱本家に到着したのは、午後の七時になっていた。
 そのときには、すでに身代金の準備は整い、出発できるばかりになっていた。
 さっきも言ったが、後妻のヤローの第一印象は、仕事のできるキャリア・ウーマンだった。
 義理の娘の小夜を心配する言葉は発していたが、心はこもっていなかった。
 服は派手でないブランドのスーツであるが、職業柄高価なイヤリングや指輪をしていた。
 化粧も落ちておらず、泣いた様子はなかった。
 実の子供が誘拐された訳ではないから、しょうがネエのかも知れないが、好きになれネエ女だった。
 父親はかなりのよたよた老人で、おろおろと歩き回って涙を拭いているだけだった。

「運搬人の心情は複雑だ。美人で、仕事もバリバリにこなして、大学教授と結婚して、宝飾会社を売り上げ十倍にまで成長させて、そのあげくが、義理の娘の身代金の運搬人だ。内部には狂言説もないではないが、一応、用心棒の構えで、お守りしろ」
 最初に情報を与えてくれた時の叔父貴のコメントである。
 仕事なので、アチキも後妻の心情を推測をした。
 大金持ちでも十七歳の反抗期の娘がいたらやりにくいだろうから、殺されてしまえば良いと思っているであろうか?
 それとも父親にとっては実の娘だから、生きて戻ってもらわないと困る、と思っているであろうか?
 あるいは、後妻が犯人の一味の場合であるが、無事に身代金を運び、ついでに軽い怪我でもすれば容疑者から外れると思っているであろうか?
 いや、それよりも、家族以外の人間(従業員も含め)の犯行だろうか?
 となると、誘拐は、大金持ちには想定の範囲内で、容疑者も分かっているのだろうか?
 それとも……。 
 様々な思いが錯綜した。
 じゃが、年商二十億もの会社や、先妻の子を持ったこともないアチキには、想像すらできなかった。

   4
 ――もうそろそろクルーザーに乗り移ってもよい頃じゃが。何ぐずぐずしてるんだべ? さっさと移れってえの。
 考えにふけっていると、いきなり無機質できびきびした言葉がイヤ・フォーンから聞こえた。
 後妻の声だった。
「クルーザーに乗り移りました。あ、黒い革の鞄がありました。中に指令書があります」
「読んでください」 
「はい。『この革の鞄にダイヤを移せ。その際、ダイヤの裸石を中のビニール袋にいれてから鞄に入れろ。そして鞄ごと床下の食料倉庫に入れ、傍のボタンを押せ。ロックされる仕組みになっているから。指令と違うところに置くな。指令に違反したら娘は殺す。終了したらエンジンをかけて北上せよ』。以上です。では、すぐに実行します」
 後妻は、叔父貴の指令を待つまでもなく、自分から率先して行動していた。
「ダイヤを鞄にいれ、指令どおりに床下の食料倉庫に入れ、ボタンを押しました。あ、ロックされたようで床が開きません。では碇を上げて出発し、北上します」
 後妻はだんだんと興奮してきている。
 同時に海のほうからクルーザーのエンジン音が地を這うように伝播してきた。
 一般通行車両ニ混じり、捜査陣の車も、北に向かって走り去って行く。
 
 クルーザーが発進してから、たっぷり三分待った。
 その間はパソコンで情報を追った。
 画面には赤外線映像――クルーザーが夫婦岩を離れて、暗い海上を北上して行く姿――が写っていた。
 先が鋭角にとがって途中まで屋根のあるクルーザー。
 波でカメラが震えているのか、画像は果てしなく上下に動き、最高潮に見にくい。
 漁船に偽装した巡視艇が大きいジグザグ走行で、そろそろと動き出す。
 動き出さない巡視艇もある。本物の夜釣りの船もある。
 一見しただけでは、海上は静かなものである。
  
 叔父貴のいいつけどおりに、さらにトランクの中でニ分待った。
 警察の関心はすっかり北上するクルーザーに移ったので、アチキへの指示はなくなった。   
 ――もう犯人は百%車の近くにはいないべ。
 そう確信を持ち、出ても大丈夫だろうと判断した。
 パソコンを消し、ゆっくりとトランクの蓋を開けた。
 注意深く周囲を見回した。誰もいない。思い切って外に出た。
 外界はあいかわらず真っ暗だった。
 八時二十分前に萱本家で車のトランクに入ってから約二十五分後の地上風景である。
 今夜は満月のはずであるが、曇っているので、海からはうねりの音がするだけである。
 地上に出ても波打ち際までは見えない。
 
 輿玉神社は、海に向かって、左から天の岩屋、手水舎、富士見橋、社務所、本殿、日の出遥拝所、契り橋、遊歩道の順で並んでいる。
 後ろは小高い丘。社務所のすぐ後ろまで森が迫っており、夜はメチャメチャ寂しい場所である。
 左端の天の岩屋から十分ほど歩いたところに旅館街、右の遊歩道から十分ほど歩いた所には二見プラザと二見シーパラダイスがある。
 アチキの車は林のすぐ近くに駐車してあり、周囲は真っ暗である。
 ずっと下になっていた左肩から腕がしびれ、感覚がない。
 半身全部が麻痺費状態になっていた。姉貴からもらった大嶋の着物も埃だらけじゃ。
 
 見渡すと、手水舎の中から、コンクリートの遊歩道の上まで、ありとあらゆる所に、大小さまざまな蛙の置物がある。
 蛙は、祭神の猿田彦大神のお遣い役なのだとか。
 犯人の用意したクルーザーは、海に向かって突き出している遊歩道の先に係留してあったはずである。
 現時点では、警察関係者は皆、クルーザーを追って北上し、この神社にはアチキ以外は誰もいない。
 コンクリート製の遊歩道は肩くらいの高さがあり、上には巨大な蛙のオブジェもあるので、脇の海岸は真っ暗である。
 しばらく足や腕を伸ばし、再度、パソコンで情報収集することにした。
 また車に戻り、画面と自分の頭が隠れる黒布を被せ、スイッチをいれた。
 こんな所にゃ犯人はいないだろうが、念には念を入れたのだ。
 
 パソコンの映像から判断すると、クルーザーは宮川の河口付近まで北上したようだった。
二見浦より北に行った地点、大湊、村松、大淀海岸にある猟師小屋からも赤外線カメラで追尾している。 
偽装巡視船・漁師小屋からの映像じゃ。
 ――どこまで北上させる気かよう? このまま朝まで北上させる気か? それとも、〝満月の絞殺魔〟と同様、身代金受け渡しは眼中にないのか? いや、そもそも、犯人は〝狼男〟ですらないのか?
 また様々な疑問が浮かんできたが、今は身代金受け渡しが無事に終るのを祈るしかない。
 アチキにできることは、クルーザーの係留地点で遺留品を見つけることであった。
 
   5

 パソコンをしまい、車から出た。遺留品捜査のためにクルーザーの係留地点を目指して海に入る。
 ――こんな所にゃ、遺留品なんてねえべ。
 などと考えながら、肩ほどの高さのあるコンクリート製の遊歩道の脇を通り、ごつごつの岩や石の上を歩き、海に入りかけた。
 その時クビの後ろがチリチリした。
 あ、これは……。
 サイコメトリングの予感じゃ。
 しかし期待した映像は落ちてこなかった。
 チラッとまばゆい光が網膜を走っただけですぐに消えてしまった。
 アチキの場合、いつ、どこで映像が落ちてくるか予測がつかないから、困る。
 今のもフェイント映像だったようじゃ。が、首の後ろは相変わらずチリチリとしている。
 絶対何かが起こるはず、じゃが……。
 頭を振ってすっきりしようとしていると、目の前に突然、少年のような細い体型の人間が現われた。
 明らかにクルーザーの係留地点から浅瀬に歩いて来た。良く見ると少女だった。
 暗く、おまけに遊歩道が海に突き出すように作られているので、相手がすぐ傍にくるまで気が付かなかった。

 相手は走って海から出ようとしていた。波の音が煩く、聞えなかったのだ。
向うも遊歩道の陰を歩いていたアチキに気がつかなかった。
 二人は真正面から鉢合わせをし、派手な水しぶきをあげて浅瀬に尻もちをついた。
「痛!」
「テメエ!」
二人とも驚愕の叫び声を上げたが、相手の驚きは数段上で、ギョッとして目玉が飛び出しそうであった。
「どうして?」
 アチキは一瞬、何があったのか理解できずに脳内が真っ白になっちまった。
 だが、相手は素早く我に帰った。
 すぐに立ち上がると、腰を抜かしたままの身体の上にかがみこみ、自分の肩を掴んで大声で言った。
「やられた。ここから逃げる男がいた。何か抱えていた。追いかけたけど逃げられた。確かに男だった」
 相手の少女は痩せ型で、アチキと同じくらいの身長で高校生くらいだった。
 少女の肩からは、血と思しき重い液体がぽたぽたと落ちかけていた。
 必死に、浜の北側を指して同じことを繰り返していたが、アチキには別なことがひっかかかった。

「待ちな。それより、テメエは誰だ? 何でこんなところにいるんじゃ? ここは立ち入り禁止のはずじゃ」
 頭の中に、一瞬、共犯の文字が浮かんだ。
 が、次のように否定した――共犯ならもっと北にいるはずだ、そっちのほうがメインだし、ここは通過地点で、アチキ以外はいないのだから。
 すると、相手は波音に負けない大声で叫んだ。
「あたしは由香さんの個人的な友達。合気道教室で一緒だったので、こっそり運搬中の警備を頼まれたの。今日は車の事故に遭って遅れたの。今さっきここに来てみたら、この遊歩道の傍に男がいたから、大急ぎで海に入ったの。クルーザーがあったはずの地点よ。そこに男がいたのよ。本当に。何か抱えていたんだから。でも殴られて逃げられちゃったの」
 叫ぶのと同時に、少女はアチキの右手をぐいと掴んで、自分の左肩に押し付けた。
 夜気で冷たくなった血がべっとりと掌についた。
「あっちへ逃げた。追いかけて」
 少女が北側の浜辺を指してまた大声で叫んだ。はやりの袖長の服で、袖の先からは雫がぽたぽたと落ちていた。
 少女の手の先をすかしてみた。
 目はかなり暗闇に慣れたが、海女小屋などの障害物も多く、人影は見えなかった。
「早く。お願い」
 相手の泣き叫ぶ声で我に返った。時を映さず立ち上がった。
 ケータイで叔父貴を呼び出し、少女にはここで待っているように命令した。
 だが、何かがしっくりこない。
「何がひっかかっているんじゃ?」
 自分自身に問いかける。
 すると。
「フフフ」
 少女が不気味な声を出して、背中に手を回した。
 ーー何?
 突然、少女の頭の上にダイナマイトの筒が現れた。そして、数秒も置かずに、シュッと炎が噴出した。
 ーー爆発?
 「ありえネエ。絶対にありえネエ――」
 口ではそう叫んだが、心ではサイコメトリングに間違いないと確信した。
 アチキのバヤイは、いつも突然に訪れるんだから……。
 でも、よりによって、こんな時に、何で?
 どっかの誰かがアチキに恨みでもあるんかーーーーーー?(続く)