『昭和探偵伝・絆』一回目

『昭和探偵伝・絆』一回目(4月17日分の前倒しです)
作者注・登場する団体、名称などは架空のものであり、実在するものとは関係ありません。

 第一章・1

 ――1957年(昭和32年)10月4日。小諸
 僕――小林星矢、15才、小諸北中学生――は、懐古園脇の叢で、すごーく興奮する風景を見ていた。
「星矢――。オメー、どこさほっつき歩いていたんだ――? こんな夜遅くまで――。ばっちゃんを心配させるでねえだ」
 と、怒られるのは分かっていたが、目の前で進行している出来事から目が離せなかった。
 時間は夜の九時。帰る途中だった。
 近所の子供――細田勇気、6才――に勉強を教え、ついでに夕飯をもらったので、こんな時間になった。
 世間ではソ連人工衛星スプートニクの打ち上げ成功で沸きかえっているようだが、今の僕はそれどころではない。
 場所は、小諸城址公園、別名、懐古園脇の叢。天守閣のある城跡と動物園の間にある崖下の寂れた細い道の端である。
 一人の男が雪駄をひきずりながら、ゆっくりと歩いていた。
 一見、いなせであるが、反面、完全にやせ我慢でもある。もうかなり寒いのに、薄い袷(あわせ)の着流し。
 花田秀次郎さんだ。二十代半ばである。
 ヒデさんは、昔の言葉で言えば渡世人で、日本全国を流れ歩く渡り鳥でもある。
 この現場へヒデさんを案内したのは、実は僕である。
 細田家からの帰り道に、近道しようとして懐古園脇の叢を突っ切ったら、死体を発見した。
 慌てて、近くに住む知り合いの駒次兄さんの家へ行ったら、駒次兄さんはいなかったけど、ヒデさんがいて、出張ってきたのである。
 僕は、駐在所へ報せようと言ったのだが、ヒデさんは、自分が犯人の手がかりを探してからでも遅くはないと主張して、勝手に死体検分に入っている。
 ヒデさんは低い草の生い茂る叢を歩き、横たわる物体の脇で足を止めた。
 手に持った提灯が揺れている。
 土の上には、斬られた人間の頭部と、少し離れて胴体がある。
 死体は五十才くらいの中肉中背の男で、服はくたびれたジャケットと皺だらけのズボンである。
 さっき僕が発見した時、慌てていたので、顔の特徴はほとんど覚えていない。
 が、懐中電灯の光の中で見た限りでは、不精髭で覆われていたように思う。
 シャツの襟も汚れの輪があったんだろうが、血でそまっていたので、確認できなかった。
 それより、まばらな雑草に侵食された土がねっとりした血で赤黒く変色していて、思わず吐きそうになってしまった。

「ねえ、ヤバイよう。指紋なんか残したら、疑われてしまうじゃないか」
 僕は低い声で抗議をしてはみたが、刑務所から出たばかりだと豪語するヒデさんは、取り合いもしない。
「指紋が怖くて渡世人がつとまるかい」
 まるで、喧嘩腰である。
 危険な香のヒデさんが気に入っている僕としては、強くは反対できない。
 一応、形だけの反論を試みている。
「でも、周囲に足跡を残すのはまずいと思うけど」
「大丈夫だって。あっしの身は安全だから、心配ねーよ。それよりテメーの身を心配しろい」
「なぜ?」
「そんなことも分からねえのかい。脳みそ足りねえなあ。そもそもあっしにこの死体のあることを教えたのは、誰だい?」
「あ」
「そうだろ。死体の第一発見者は、他ならぬオメーだろうが。気を付けなよ。サツが疑うのは、第一発見者だからな。オメーだって死体の周囲に足跡は残しているし。それに、推理マニアのオメーのことだから、死体のどこかに触って指紋だって残しているに違えねえやな」
 嬉しそうに嘯きながら、ヒデさんの足がゆっくりと死体に近づいていた。
 死体の頭部を軽く蹴って、胴体のほうに廻り、死人のコートのポケットから財布を出した。
 が金目の物がなかったと見える。
 遺体の周囲に目を転じ、周囲の叢に分け入り、ついには財布のような薄い入れ物を発見すると、何の躊躇もなく中身を抜き取った。

 その時、後ろから声がかかった。
「おい。そこのあんさん。今何をしたい?」
 男はきちんとした三つ揃えのスーツを着て、煙草を吸っていた。昼間、出会ったから、名前は知っている。
 明智恭介さんだ。三十ちょい過ぎらしい。
 ペンネームであるがペンネームしか言わないので恭介さんと呼んでいる。
 ヒデさんの兄だから、本名は花田恭介だろう。
 恭介さんは、両切りたばこの端から口に入ったタバコのクズをペッと地上に吐いた。銘柄は゛新生"だ。
 ヒデさんは無視して、死体の遺棄してある現場から立ち去ろうとしている。
 恭介さんが畳みかける。
「あんさんは浮浪者かい? 殺されなすったお人の金を盗むなんて」
 ヒデさんは、なおも無視して歩き去ろうとする。
 手持ちの提灯に照らされた顔は、『死人に金は必要ねえだろうが』と語っている。
 恭介さんが少し大きい声で声をかける。
「浮浪者なら、大目にみようって考えも起こるが、あんさんもいっぱしのお兄さんだろうが。恥かしいぜ」
 目の醒めるような鮮やかな巻き舌である。
 ようやく立ち止まりかけたヒデさんが、肩だけ微かに退いて冷たく言い放った。
「その、いっぱしのお兄さんに万引きの罪を被ってもらって、大学校へ進学したのは、一体、どこのりっぱなお兄さんだろうね?」
 こっちは、もっと聞き取りにくい巻き舌である。
「おい。そのことは言うなと言ったろうが。もう十年も前の話だ」
 慌てた恭介さんがたばこを投げすて、口ごもって抗議した。
 だが、ヒデさんは相変わらず醒めきっている。
「過去を簡単に忘れられる男は羨ましいぜ」
 恭介さんは汗だくで、弁解する。
「だから、あの時は、オメーにも責任があるんだぜ。確かに受験のストレスで万引きしたのは俺だが、悩んでいる間にオメーが勝手に警察に出頭し、取調べ中に大立回りを演じたからいけないんだろうが。俺は、探偵になろうと思っていたから、別に大学に行けなくても良かったのによう。それに、いずれは、素直に謝ろうと思っていたのによう」
 ヒデさんは短気で思いこみが激しく、今までも何度も、先走っては失敗をしているらしい。 
 一方、ずるがしこそうな兄は、弟の性格を知り尽くしているので、万引き事件のときも、「悩んでいた」と言いながら、本当は、弟が身代わりになるのを待っていたのではないかと思う。
 万引き事件の後、恭介さんは無事に大学を卒業し、刑事になり、警部補にまでなった。
 その後、汚職事件があり、引責退職して、今は探偵稼業をしながら、自分で扱った事件を題材にして自分を主人公にし、小説を書いているのだとか。
 二人はおたおたしている僕を残し、さっさと駒次さんの家の方へ引き上げてしまった。

 2

 一時間後。
 僕は、幾田警部補と一緒に、現場にいた。
 県警本部の如月康司(きさらぎやすじ)警部が来るのを待っていたのだ。
 花田兄弟が、駐在所に報告する役目を僕に押し付けて引き上げてしまった後、しかたなく、近くの駐在所に死体発見の第一報を伝えた。
 最初は当然ながら、犯人ではないかと疑われた。
 が、近くに住む医者で、検死の役を買って出てくれた室田先生が、死亡推定時間は、午後の七時を挟んで一時間だと断定してくれたので、容疑者から外された。
 その時間は、勇気に勉強を教えていて、アリバイが成立したのだ。
 すでに小諸城址公園、別名懐古園脇の叢は多くの刑事で埋まっていた。
 ここは、小諸駅から徒歩五分の場所にある。
 駅に面した三ノ門や天守閣の石垣、藤村記念館のほうは明るいが、動物園との境、断崖の下に位置するこの場所は暗い。
 
 如月警部は初動捜査の終わった三十分後(十一時頃)、やっとジープでかけつけてきた。
 警部は極めて不機嫌そうな顔で所轄の刑事たちから報告を聞くと、初動捜査で何十回も聞かれた質問を僕にした。
1。被害者に心当りはないか。
2。僕が犯人ではないか。
 あまりにも馬鹿馬鹿しい質問に、僕は疲れきり、黙って両手を上げて、勘弁してよ、の動作をしただけだった。
 被害者は財布に入っていた名詞から、フリーのジャーナリストの坂之上秀忠と分かった。
 しかし、きちんと髭のそられていない顔や、汚れだらけのYシャツからして、まともな記者ではないようだった。
 普通なら明日の朝まで発見されなかっただろう死体を早く発見して通報してあげただけでも感謝されて当然なのに、非難されるのは心外だった。
 ましてや犯人扱いされるのはもっと頭にきた。
 だから、さっさと帰ってラジオでスプートニクの話題でも聞こうかと思っていた。
 しかし、捜査は予想外に早く進展していて、僕としては帰るわけにはいかなくなってしまった。
 縄で囲われた現場の周囲には、住民が野次馬根性で集まってきていた。
 もう十月、信州ではすでに綿入りの着物――ドテラ――の必要な時期になっていた。
 それでも綿入れ半纏やオーバーに身を包み、カイロを持った住民は、好奇心丸出しで辛抱強く初動捜査を見守り、 中には、目撃情報を寄せる人間もいた。
 磯田警部補さんが、目撃者はいねーか?と聞いたのに対し、駒次さんの借りている家の大家さんが手を上げた。
「八時頃にヒデさんを見かけたがのう」
 はっきりそう断言した大家は、自分が近道をするために、懐古園の断崖の下をとおったのだと説明した。
 仰天するような情報だった。
「ヒデさんが、八時頃に?」
 思わず聞き返した。
「じゃあ、第一発見者は僕ではないの?」
 大家さんは自信を持って頷いた。
「ああ。オラはちゃんと見ただ。提灯持っていたので間違いねえだ。八時頃。ヒデさんが遺体の周りをうろついていた。それから、離れた叢の中には恭介さんもいただ。間違いねえだ」
 大家さんは何度も頷いて断言した。
 不本意な方向ではあるが、捜査は急展開をしそうな感じになった。
 
 ますます帰るわけにはいかなくなり、警部補さんの後ろにくっついて、駒次さんの家まで行った。
 駒次さんの家は昔風の旧い木造二階建ての家である。
 台所には土間があり、その先の板敷きの間には形ばかりの食事する場所がある。
 台所のほとんどと、隣の茶の間、二階の部屋は、埋蔵金発掘に必要な道具で生め尽くされている。
 ガタピシと音をたてる木枠のガラス戸を引き空けると、薄ぐらい裸電球の下に、片付けるつもりのない扇風機と、銀色の魔法瓶と赤い置き薬の箱があった。
 それらは右手のカマドの上に置かれ、土間に放置されたみかんの木箱の上には、“文化住宅”やアパートの写真の載った雑誌がある。
 台所の向こうには破れ障子があり、裏の黒板塀が見えた。後ろはお風呂屋さんなどが並ぶ狭い路地である。
 板の間の僅かな生活空間で、ヒデさんと恭介さんが、勝手に駒次さんの家の酒や肴を出して酒盛りをしていた。
 我が家同然であった。
 
   3

 大家さんに案内された磯田警部補さんが、訊問を始めると、ヒデさんはスルメを噛みながら、涼しい顔で応えた。
「八時頃? 確かに現場にいたわなあ。だが、あっしは犯人じゃあねえぜ。目撃者だ。それも兄貴と一緒にだ。あっしらは、近道をしようとしてあそこを抜けた。その時に、二人の人間が斬りあっているような気がして、こっそり覗いていただけなのだから。なあ」
 爪楊枝をくわえた兄貴は黙って頷くだけだった。
「じゃが、あっしらが目撃した二人はこそこそと逃げるように帰ってしまったから、大家さんの目撃したのは、その直後じゃあねえのかい?」
 これに対しては警部補さんと僕が同時に反論した。
「嘘を言っては困るねえ。死亡推定時間は七時を挟んで一時間なんだから、八時に斬りあいなんて、あるわけがないだろうが」
 と警部補。
 僕の反論は次。
「じゃあ、何で、僕を第一発見者だなんて断定したんだ。自分らのほうが先に発見していたのを隠してさあ。変じゃないか?」
 ヒデさんは、またしても涼しい眉で応えた。
「ほう。ガキの癖になかなか鋭いねえ。まず、警部補さんの質問に対して、答えてしんぜよう。あっしらは、八時に確かに二人の人間がいるのを見た。おまけに、あそこで争っているように見えた。だが、死亡推定時間が七時前後っちゅうことだったら、八時の時点では、死体は既に土の上にあり、犯人か関係者が二人、証拠隠滅でもしていたに違えねえやな。人相風体から察するに、唐松林(からまつばやし)商事の若いもんだと思うがなあ。最近流行りの黒のピンストライプのスーツにボルサリーノとかいう帽子を被っていたんでねえ。あっしらも関わりあいにならねえようにしていたんでさあ」
 僕の質問には恭介さんが答えた。
「ヒデが小林少年に対して第一発見者ではねーかと言ったのは、まあ、軽い社会勉強か、作家の勉強のためだ。つまり、第一発見者がどんな扱いを受けるかを体験させてやろうというあり難い心使いだ。これで、小林少年も、将来、探偵作家になった際は、第一発見者がおたおたするシーンをリアルに描けるわけだ。ま、その際には推敲だけはきっちりやれよな」
 まるで答えになっていないような気がした。
 ヒデさんに憧れている僕としては、嫌疑が晴れて嬉しいような、憧れの人に嘘をつかれて失望したような、複雑な心境だった。
 いずれにしても、七時頃に殺人を冒した人間と、八時に証拠隠滅を図りにきた二組の人間がいたってことだ。ヒデさんたちの証言によれば。

  4

 翌日。10月5日。
 僕は、高校を休んで、古城地区にある細田家にいた。
 細田のオバさんに強引に頼まれた。
 細田勇気が近いうちに誘拐されるかも知れないから、協力してくれと言うのだ。
「だからあ、誘拐予定の手紙が投げ込まれていたの。で、その誘拐予定犯からの脅迫状には、ハム、つまりアマチュア無線のことが書いてあるの。身代金運搬途中の連絡はアマチュア無線でするって。まあ、正確には犯人役をするのも私たちだから、通信を送るのも受けるのも私たちなんだけど。でもハムのことを知っているのは、あんたしかいないのだからあ、少しくらいは協力してくれたって、罰は当らないでしょうに。それに、あんたには、壊れたとは言え高価なトランジスター・ラジオを上げたのだし、恩返しをするのは人間として当然の義務よ。いいえ、ここで恩返しをしないのは、人間のクズよ」
 ケバケバしさでは誰にも負けないオバさん(真紀さん、35才)が、大げさに机を叩いた。
 居間の高価なソファーの机の上には、数枚の便箋がある。
 さっき、この部屋に入ってすぐにオバさんが取り出したものだ。
「ねえ星矢君。四日後に勇気が誘拐されるんですって」
 細田オバさんは、僕と勇気がソファーに坐るか坐らないかのうちに、嬉しそうに囁いた。
 平日なのに勇気が家にいるのは、いつものことで、サボリである。
 勇気は漫画家志望である。今でも新聞に投稿している。
「はあ?」
 まったりした空気の中で、昼メロみたいな口調で語りだされた話に、漫才でも始まったのかと思ってしまった。
 勇気は、渡辺のジュースの素を濃い目に入れて、ストローで吸いながら、くすくすと笑っている。
「本当らしいよ。今朝、今郵便受けに封筒が入っていたんだ。四日後には、十月九日の午後六時に僕を誘拐するって書いてあるの」
 勇気がイタズラッ子の目で大判の封筒と中から出した便箋を持ち上げた。
 反射的にその便箋を手に取る。
 表紙には和文タイプで『ゲームOR"狂言〟誘拐』と大きく題され、二行目には少し小さく、『狂言誘拐の指示書』と書いてあった。
 表紙をめくる間もなく、向こうが勝手に話し始めた。
「二枚目から具体的に計画が書いてあるの。それと、誘拐が行われた後、私たちのするべきことも細かく指定してあるの。でも、これって子供の悪戯だわよねえ。だって、子供を誘拐するって言われて、子供をどこかに隠さない親なんていないものね。そんで、誘拐がなされなきゃ、その後のことなんて、机上の空論だものね」
「そりゃあまあ、そうですが」
「でもね。念のため、アマチュア・無線やゲルマニウム・ラジオのことなんかを聞いておいても損はないと思って、君にきてもらったの」
 敵は、僕に学校をサボらせたことなんて、屁とも思ってないような、暢気な顔で大きくウインクをした。
 
 細田勇気の母親はB型であると勇気から聞いた。まさに典型的なB型性格である。
 他人の意見はほとんど聞かない。
 表面では聞いているふりをして、にこやかに頷いているから、演技に騙され、こっちの意見が通ったのだろうと思って先へ進めると、平行線だったりする。
 それに、反省をしない。世界が破滅しても反省はしないだろう。
 いつも陽気でいるのが、メゲないで逞しく生きぬく象徴みたいに言われているが、メゲルだけの細かい神経がないから、暢気に笑っていられるだけだ。
 これまでにも、何度もはらわたが煮えくり返るような思いをさせられてきた。
 中でも一番頭にきたのは、テスト中に呼び出されたことだ。
 半年ほど前のテストの最中だった。
 敵は用務員の小父さんが「テスト中ですから」と断るのを強引に制して、僕を呼び出したのだった。
 しかるに、その質問の内容は、オーディションで演出家にアピールする自然な演技の方法だった。
 子役オーディションの会場からで、演出家が思いのほか若かったので、僕の意見を求めたのだった。
 案の状、その時のテストでは落第点をもらった。
 あの時は、マジで殺してやろうかと思った。

 それでも我慢しているのは、色々と新製品をもらっているからである。
 例えば、ちょっと前、東京通信工業(注、後のソニー)から国産初のトランジスター・ラジオが発売された。
 料金は一万円以上だった。給料の一月分だ。
 細田家では、それを二台買ったのだ。
 そのうちの一台を、勇気が投げて壊してしまったので、僕が貰ったのだ。
 裏を言ってしまえば、僕が「欲しいなあ」と指をくわえていたのを見た勇気が、六才の頭脳で必死に考えをめぐらし、自分から率先して投げて壊してくれたのであるが。
 決して僕が助言したわけではない。勇気がとびぬけて頭がよいのだ。
 僕としては、勇気の聡明さに感謝しつつ、壊れたラジオを修理して聞いているのだけなのだ。
 他にも、『力道山物語・怒涛の男』や『太陽の季節』、『狂った果実』は、ロードショウ料金で連れて行ってもらった。
 それに、“勇気が将来ノーベル賞学者になるために必要だから”と称して、トランジスターラジオの部品とかゲルマニウムダイオードアマチュア無線のキットなどを買わせて、貰っているから、仕方なく我慢しているのだ。
 因みに勇気の父親は、細田博次(45才)で、健康増進商事の社長である。
 主にアメリカからの商品を輸入販売している。
 家は高台にあり、部屋数は三〇室もある。
 旧家で殆どは和室であるが、今いる応接間は洋風建築で、増築したものだ。世間的に言えば豪邸である。

   5

 僕は、にわかに思い出した恨みと怒りを悟られないように、表情筋を動かさないで『狂言誘拐の指示書』を開いた。
 指示書の内容は以下だった。
 和文タイプの文字だった。
細田博次さんへ。これから“狂言誘拐”をしてもらう。しかし、簡単には命令には従わないだろうから、人質を取った。君の愛人さん・赤坂真由美と、愛人さんの子供と、一千万円分のナイロン・ストッキングだ。おたくがアメリカから輸入し、上田にあるXX倉庫に入っていたことを、親切にも真由美さんが教えてくれた。私はすぐにある場所に隠した。これから指示することを忠実に守れば商品は返してやる。安心して良い』
 指令書には、この後、わざとらしく『我々の間には、表面上の行き違いがあった。これからもあるだろうが、根本部分での信頼が大事だ』と書いて、赤丸で囲ってあった。
「赤坂真由美っていうのは、夫の愛人で、子会社の生活改善商事の社長なの。年は私より五つ上だから、四十ね。この手紙を書いた張本人だと私は思うわ。そう言えばあんたも家庭教師をした時に会っているわよねえ。参考までに言うと、つい最近、株の失敗でクビになったようなの。五百万の損を出したらしいわ。夫は私には秘密にしているけど、『表面上の行き違い』とはその意味よ。さっさと許して元に戻してあげれば良いのに。勇気の世話を頼むのにこっそりやらなきゃならないから、面倒でし方がないわ」
 僕が質問するよりも早く、細田のオバさんは説明を入れてくれた。
 赤坂真由美という人は、知っていた。社長の愛人というよりは、細田オバさんが東京へ行く時、いつも勇気の面倒をみてくれる人だ。
 女優復帰が夢で、母親失格のオバさんと、仕事人間でほとんど家にいない父親でなりたっている細田家にはなくてはならない存在だ。
 赤坂オバさんの体型は太め。性格や中身は、目の前の人よりずっと普通の人間に近い。
 血液型は知らないが、少なくともB型ではないと思う。
 その証拠に計算をした時に、必ず検算をするし、人の言うことは聞くし、自分の意見を言った後に他人の意見も聞いてくれる。中学生の僕の意見でも真剣に聞いてくれる。
 それから書類を書いた時は読みなおしをするし、うろ覚えの漢字や名前は辞書や百科事典で調べる。
 もっと内情を暴露してしまうと、細田オバさんは、月の半分以上は、オデカケで家にいないが、そんな時は、いつも勇気を預かって面倒を見てくれる。
 当然、家庭教師役の僕も赤坂さんちへ行って教える。例外なく手作りの夕食をご馳走してくれるし、勉強で理解不能の所とか、株のこととか教えてくれる。
 要するに、かなり仕事もできるが、普通の主婦としても合格の部類だ。
 もっとも細田オバさんに比べれば殆どの主婦は合格だが。坂ノ上地区に住んでいる。
 
 ――でも。
 ここでまた疑問を持ってしまった。
 一見すると、クビにされた赤坂オバさんが狂言誘拐のストーリを書いたように見える。
 でも、あの頭の良い人がそんな馬鹿なことをするだろうか?
 僕は、前に赤坂オバさんが漏らした言葉を思い出していた。
『あの家には、信長のような大将は二人いるけど、参謀がいないの。勇気の父親も母親も、自分の興味とやる気だけで突き進んでいる。でも、それぞれの思いつきを実行に移すには、地道な計算ができて辛抱強く交渉したりすることのできる人間が必要なの。まあ、あの家から私を引いたら、確実に潰れるわね』
 この言葉を聞いた時は、すごい自信家だと思っていた。
 だが。
 勇気の家庭教師をやるようになって三年。
 ずっと三人の行動を見てきた僕は、その言葉が正しいと、最近思うようになった。
 勇気の母親が東京へ行けるのも、父親が海外出張できるのも、子供を預かってくれる人があるからだ。
 となると、そこのところを熟知している赤坂のオバさんは、”狂言誘拐”なんてしなくても、社長の怒りがとければ、確実に元のポストに戻れるだろうし。 
 でも、犯人が一千万の商品を隠したのが本当なら、赤坂オバさんの協力なしには、この誘拐は成立しないだろうし。
 その上、誘拐犯人が、これだけの自信を持って手紙を送りつけている以上、一千万の商品は確実に隠しただろうし、赤坂オバさんは協力しているに違いないだろうし。
 ――そうだ。赤坂オバさんは、何かの弱みを握られて強制的に協力させられているのかも?
 
  6

 指示書に目を戻す。ふざけた調子の指令書は続く。
『ではこれから君のするべき手順を説明する。誘拐劇が終了した後、一千万円分の商品と勇気君と真由美君と真由美君の子供を返してもらいたかったら、次のように行動してくれ。四日後の十月九日、君の本妻の子供・勇気君を誘拐する。これは私がやるから、心配しなくて良い。勇気君を隠しておく場所には真由美さんと真由美さんの子供がいて手厚く保護し、遊び相手になってくれるから、それも心配しなくて良い。勇気君と商品は、君が要求に従いさえすれば、無事に返すから、心配しなくて良い』
 このような文面のあと、実際に細田夫婦がするべき事柄が細かく指定してあった。

(1)四日後までに、アマチュア無線の機械と、トランジスター・ラジオ、あるいはゲルマニウム・ラジオを用意しておけ。アマチュア無線の機械は、発信機としてニ回ほど使用する予定だ。

 僕は、この時点で赤坂オバさんのほかに、もう一人協力者がいると悟った。
 赤坂オバさんは、計算も間違いなくでき、検算もし、脅迫されれば筋の通った誘拐ストーリーは書けるかも知れないが、アマチュア無線については詳しくない。
 トランジスター・ラジオとゲルマニウム・ラジオの違いは知らない。
 ゲルマニウム・ラジオとは、ゲルマニウムダイオードを使ったラジオであり、今までの真空管ラジオに比べて非常に小型になった。
 ダイオードとは半導体で、交流を直流に直したり、電流を増幅したりするものだが、ゲルマの場合、電極が二つなので、二極ラジオとも呼ばれる。
 この半導体の電極を三つに増加したのが三極ラジオ(商品名・トランジスターラジオ)で、音がはっきりと聞える。
 ゲルマ・ラジオは比較的安価で手作りキットとして人気急上昇中である。僕もこの趣味に嵌っている。
 三極ラジオ(商品名・トランジスターラジオ)は、二極ラジオ(通称ゲルマ・ラジオ)よりはずっと高い。
 となると、僕の趣味を知っている誰かが協力している。誰だろう?
 細田オバさんの落ち着いた話し方からすれば、オバさんも一枚噛んでいると思われる。
 勇気が誘拐されて感動的な救出劇があれば、一気に有名になれる。
 もし、途中でまずい方向にゆきそうだったら、「ごめんなさい。単なる家出でした」と、謝る方法もある。
 たとえ、一時バッシングされても、無名よりはずっとよい。
 細田オバさんの参加も確実だが、もう一人、電子工作に強い人間となると……。
 誰だ? 勇気か?
 こめかみを押さえて頭を整理するふりをしながら、目前の二人の表情も偵察する。
 だが、天然ボケの性格で、世界の破滅を予言されたとしてもケラケラと笑っていられる二人からは、とても、隠された心理を読むことはできなかった。
 いや、この二人に隠された心理が宿るとしたら、赤い雪が降るだろう。

 (2)四日後の十月九日の午後六時には君らの子供を誘拐するから、午後の八時頃に警察に電話すること。脅迫電話はしないが、午後の八時頃に脅迫電話があり、内容は、次だったと警察に伝えよ。
『子供は預かった。明日の夜六時までに現金五百万と無記名の有価証券三百万分を用意せよ。母親を運搬人とし、現金五百万円分は使い古しの千円か五千円札で用意し、ボストンバッグに入れろ。無記名の有価証券の種別は特定はしない。身代金の運搬は、誘拐の翌日の午後六時開始とする。ルートは海野宿が出発点で、国道18号線を北上せよ。身代金運搬中の連絡はすべて無線通信でするから、必要な機材を用意しておけ。送受信できる機材を一台、運搬車に乗せろ』
 つまり、君らは、この内容の脅迫電話を犯人から受け、その指示に従って無線機材を揃えたことになる。
 誘拐前に機材を購入しておくと後々狂言だと疑われたら困る、と心配なら、誘拐後に購入せよ。

(3)身代金の運搬の開始時、私からは一切の連絡はしない。だが、リアルな誘拐がなされたと警察には思わせなければいけない。なので、君らには犯人のすべきことを幾つか実行してもらう。つまり犯人代行だ。まず警察が到着すると同時に、夫がやる事。脅迫電話を、外の赤電話から自宅にかけること。
 警察に話す脅迫電話の内容は次だ。
『身代金と無線通信装置は揃ったと考える。ない場合は子供の命も保証しない。一台は車に搭載せよ。こちらの無線で出す指示を待て。簡単な暗号又はヒントで途中の指示を出す。最初はスプートニクだ。このヒントでピンときたら、指示に従え。身代金運搬の開始は通知済みだが、途中、上田あたりで次の指示をだすから、それを待て』
 ここまでが警察に話す内容だ。だが、出発時、犯人から開始の無線が入ったほうがリアリティがあるから、その時点で、君らの誰かがこっそり無線で、母親の車の無線機に開始の合図をしても良い。

 僕は、一読しただけで、ピンときた。
 昨晩、スプートニク一号から発信された周波数は、今アマチュア無線の仲間で有名。20MHzと40MHzだ。
 まあ、仲間とは言っても、無線機を買える人間は全国で一万人くらいだから、出力が小さければ、この近く以外の無線マニアには傍受される心配はない。
 この程度のヒントだとすると、次のヒントもアマチュア無線に関係する物だろうと、推測された。

「これって、この前、君にあげた、あの機械類だよね。勇気をノーベル賞学者にするためとか言って買った奴。確か、アマチュア無線機もあったし、ゲルマ・ラジオもあったし、トランジスター・ラジオは壊れたのを修理してあるだろうし。あれらを使えば良いわよね」
 オバさんが、にんまりと薄ら笑いをうかべながら、さっき破った紙の袋をゴミ箱に捨てた。
 僕は、呆然として自己中心オバさんの顔を見上げた。
「待ってくださいよ。あれは、確かに貰ったものかもしれないけど、今は僕の所有物ですよ。勝手に使わないで下さいよ」
 抗議すると、敵はもっと驚く言葉を吐いた。
「ううん。私たちは勝手には使わない。というか、使えない。だから、君に使ってもらうの」
「まさか、僕もその狂言誘拐にまきこむつもりじゃあ」
 オバさんは、黙って笑っている。
「そんなあ。待ってくださいよ。アマチュア無線のことはいくらでも教えますよ。でも」
「分かった。君がそんなに渋るんなら、テレビもつけちゃう」
「はあ?」
「だからあ、成功したら、報酬として、テレビも進呈する。でも、まあ、四日後に勇気が誘拐されなきゃ別に問題は起きないのだし、それに誘拐されても犯人は赤坂さんだって判明しているのだし、金さえ払えば勇気は無事に帰すと言っているのだから、気楽に考えれば良いのよ」
「待って下さいよ。もし実際に誘拐が起こって、僕が出発の時点で無線を送信したとしますね。後で、間違って僕が逮捕されてしまった時、狂言誘拐の指示書に従ってやったんだと主張したとしても、警察は信用してくれるでしょうか?」
「大丈夫よ。もし、バレたら、この指示書を見せるわよ。そして、本当に子供が誘拐されてしまったんで、しょうがなく指示に従ったって言うわよ。警察だって信じてくれると思うわ。だって、私たちは被害者なんだもの」  
 僕は考えこんだ。
 その間に、勇気がソファーの後ろから白い風呂敷包みに入った物を出してきた。
 中には箱状の物が入っている。
 大きさや色から言ってテレビだ。
 僕は思わずつばを飲んだ。
 強硬に反対する気が失せた自分を実感していたから。
 なんか、そんな自分がとても嫌だった。

    7

 気持ちを整理するために、一回、便箋から目をあげ、周囲を見まわした。
 この家は金持ちで、新しい物はすぐ買いたがるので、脚の長い白黒テレビとか、高価なレコード・プレーヤーとか、最近の流行りのものはほとんど揃っている。
 外国雑誌の切りぬきみたいな調度品が、数百年前の螺鈿の箪笥とか、仙台彫りの衣装櫃とか、鎌倉彫りの座卓とかと並んでおいてある。
 まるでおもちゃ箱をひっくり返したようなにぎやかさである。
 オバさんの外見も言ってしまうと、パーマをかけた髪の上に、マチコ巻きにしたスカーフをかぶり、大きな襟の輸入物のワンピースである。
 勇気は、元は高かったんだろうけど、いつも着ていて擦り切れた服とズボンである。
 これには、オバさんは顔をしかめるが、勇気のお気に入りなので、しょうがなく許している。
 僕はといえば、勇気のお父さんからもらったお古の服である。
 まあでも、友達も皆そうであり、兄の服の裾上げをして着るのが普通なので、恥かしいとは思わないが。
 世の中は、失業率が高い。あちこちで労働争議がもたれ、ストが当たり前に決行されている。
 学校の友達の中には、子供をおぶって学校へ通ってくる子や給食費が払えず、お昼には家に帰ると言って外で時間を潰している子もいる。
 はっきり言ったらうちも貧しい。周りが皆そうだから、嫌だと思ったことはないが、夕飯のおかずに何ヶ月も肉の顔を見ないことも多い。
 僕は両親がおらず、祖父母と暮らしている。
祖父母は両親のことを教えてくれない。死んだのか行方不明なのかは知らないが、叔父さんの援助で生活している。
 食べ物に関しては高望みはしないが、テレビだけは欲しいと思う。
 最近、ラジオ局がテレビ放送をはじめ、急成長していると聞いた。
 テレビ放送も基本的にはラジオ放送と同じで、出力の小さい局であれば、少ない資本で、市民テレビ局を開設できる可能性もある。
 内容が面白ければ、急成長も夢ではない。
 うちの財政では電気代は払えないが、テレビの仕組みを調べたいとは思う。
 そうすれば、将来、自分でテレビ製造会社を立ち上げることができるかもしれない。
 送信の技術も勉強すれば、テレビ局だって開設できるかもしれない。
 僕は、いつのまにか積極的に”狂言誘拐計画”に参加しているのに気がついた。 

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 それにしても、この”計画”の首謀者は誰だろう?
 細田のオバさんだろうか?
 その可能性は大だ。
 芸能界大好きオバさんの夢は、女優復帰か勇気の芸能界デビューだ。今も勇気の映画の主役獲得に向けて、日々努力している。
 来年の春に大きな映画の子役オーディションがある。
 噂では、すでに有名子役が内定していて、オーディションは形だけなのだとか。
 だが、その有名子役はまだ本決まりではなく、他の有力候補も探しているらしい。
 つまり、どんなことをしてでも有名になれば、主役の可能性は残っているってことだ。
 ――しかし、狂言誘拐がバレたら、逆効果だと思うが。
 でも、この指示書があれば、”強制的に狂言誘拐をさせられた”ってことだから、一般的な意味での狂言誘拐ではなく、あくまでも強制された誘拐であり……。
 分からなくなった。なので、考えは止めた。
 ふと見上げると、細田オバさんが意味ありげな視線で僕を見ていた。

「ねえ、ありえないとは思うけど、この指示書を書いたのはあんたじゃないわよねえ」
 ずーーっと言いたかった質問をやっと口にしたという表情だった。
「どうしてですか?」
「だって、あんたはゲルマニウムダイオードだとか、シリコンだとかを集めているでしょう。あんなものが何の役に立つのかしらないけど。この手紙にもそんな専門用語が幾つも出てくるわ。ということは」
「何の役に立つって? だから、あれらは、半導体といって、今後の電子機器の主流になるといわれているもので、新しい半導体を発明したらノーベル賞だってもらえるんだよ。アメリカではその研究が盛んで」
 僕が説明を始めると、オバさんがうんざりという顔で手をかざした。
「あのさあ、あんたのそのお題目は聞き飽きたわ。アメリカが何を研究しようが、あたしには関係ないの。夫もアメリカ製品を輸入しているけど、実際にあるものなの。この世にまだ存在しないものではごはんは食べられないの。だから、架空の物で説明をしないで。私にわかるように、この指示書と関連あるかどうかを説明して」
「分かるように、ですか。わかるように、ねえ」
 僕は頭をかかえた。いくら説明しようとしても、理解する気がない人間にどうやって。
 悩んでいると、敵は勝手に結論を下してくれた。
「分かったわ。あんたじゃないわね。もし、あんたがこの手紙を書いたのなら、言い訳くらいは考えておくものだし。わかった。とに角、指示書を書いたのはあんたじゃない。私も最初から、クビにされた真由美さんだと思っているの。だから、今の質問は忘れて」
 オバさんは、自分から質問をしておいて、自分が理解できないとなると、勝手に架空の話だと結論づけ、ついでに、犯人をも僕ではないと結論づけてくれた。
 
(続く)

 追伸。修正です。
アフィリは自分の好きなもの→個人情報、結びついてしまうので、しばらく見合わせます。
 
追伸2.
前回の予告の半分くらいまでしか行かなかったので、次回(二週間後)は身代金運搬開始までゆく予定です。