『昭和探偵伝・絆』4回目
前回までの内容
第一章
昭和三十二年、十月四日、午後九時。僕(小林星矢十五才)は、小諸、懐古園の脇の叢で死体を発見し、ヒデさんと兄の恭介さんに報せる。ヒデさんは死体の財布から勝手に何かを盗む。
捜査開始。→八時にヒデさん兄弟が現場にいたことが判明。二人は犯行を否認し、唐松林商事の人間がいたと証言。
翌日、細田勇気の母親から呼ばれ、勇気を"狂言誘拐"するとの手紙が投げ込まれたことを教えられる。
"狂言誘拐の指示書"の内容――勇気の父親の会社の商品と愛人と愛人の子供を人質にとったので、四日後に開始する"狂言誘拐"に加われ。身代金は八百万円――。
細田オバさんは、犯人は愛人の赤坂オバさんと湯西だと断定し、勇気を有名にするためには、加わると所信表明する。
第二章
母親が書いた筋書きか?父親の会社の商品も売れ残っている(大卒の給料が一万円程度の時代に一千万の在庫)ので、父親の筋書きか? オバさんは、勝手に"脅迫状"に『ラジオ放送を要求する』などの文を追加する。
翌日、唐松林商事で闘い。如月警部が現れ、唐松林商事の人間とヒデさんが、容疑者として連行される。
翌七日。午後の八時半。母親から、勇気が誘拐されたとの電話が入る。四日後に勇気を隠そうと思っていたら、二日後に決行されてしまった。
警察に連絡。小諸署からは逆探知の捜査官が細田家に行き、僕は小諸署に呼ばれる。
アマチュア無線などを指定してあることから、"狂言誘拐"だと詰め寄られ、犯人からの"指示書"の内容を話す。僕がオバさんの創作部分――ラジオ放送、ニュース映画撮影――を黙っていたのに、オバさんは話してしまう。
いよいよ、翌日の午後六時。海野宿で身代金運搬前に、オバさんがスカートを捲るパフォーマンスをする。
僕は、犯人役をこなすために、隠れて無線を打つが、警部に発見され、主犯だと言われる。
第三章
身代金運搬の開始は一時間後になる。僕は、警部と話をし、警部が二日前、細田家に部下を送りこんだと漏らす。(僕を最初の殺人<坂之上秀忠>の犯人ではないかと疑って)。今回の計画が全て筒抜けであったことが判明。
身代金運搬は開始されるが、ラジオ放送されたことで、"狂言誘拐"の噂が立ち、細田夫婦は非難の的にされている。
運転を開始するとオバさんはウイスキーの小瓶をラッパのみし始め、電信柱の手前で急停車(川中島の古戦場跡)。
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第四章
1
「ぐおお――」
二人の口から同時に悲鳴とも驚愕とも区別のつかぬ叫び声がもれ、動きがフリーズした。
数瞬後、細田オバさんが幼稚園児そっくりの大声で泣きだした。
同時に、僕も床にどっと崩れおちていた。安心からくる弛緩状態だった。
が、その一秒後には、突然声を詰まらせて、相手の泣き声がとだえた。
何事?
危ぶんで双眸をあげると、肘からしとどに血を流している腕が窓から指し込まれ、後ろからオバさんを羽がいじめにしていた。
オバさんの口には軽くすぼめた掌が突きこまれて、声の伝播が妨げられていた。
黒い服に着替えた勇気の父親だった。
五百メートルほど後ろから急発進してきて、すぐ後ろで停車し、かけつけてきたと思われた。
腕の傷は、急停車した時に、何かの角で切ったものと思われた。
運転席に半分体を乗り込ませて、片方の拳をオバさんの口に入れながらも、反対の手では、何かの書類を抱えたままだった。
書類の端は血で赤く汚れていた。
きっと、急停車した時に傷つけたのだろう。
オバさんの表情は完全に静止していた。失神していたのだ。
何とか電柱の数十センチ前で車は止まり、僕らは、怪我は免れた状態だった。
場所は、川中島古戦場跡の入り口だった。
公園になっている。
「大丈夫? 怪我はないーー?」
後ろから黄色いと呼ぶしかない声がして、バタバタと細かく走る足音が迫ってきた。
「本当に、もう。絶対こうなると思っていたのよ」
沙耶警部補の声だった。
「だから、私が一緒に乗って、運転すれば良かったのよ。大体子供のことで気が動転して、安全運転なんて、できないに決まっているじゃないの」
沙耶さんは、どこかで湯西さんが見ているかもしれないのをすっかり忘れ、喚きたてながら、落ちた紙を拾い集めているようだった。
「ああ、もう、こんな時くらいは、仕事をしないでもらえるかしら?」
そう言いつつ、拾い集めた紙を差し出した。
父親は、一瞬、キッと目を怒らせて沙耶さんを睨みつけたが、すぐに無視してこちらに向き直り、口に入れた拳を抜いて、エイッと渇を入れた。
「う、うー―ん」
失神していた顔がかすかに歪んで、赤みが戻った。
ようやく目を空けたのを確認すると、オジさんの顔がこわばった。
「お前は、お前は、子供が誘拐されているっていうのに、酒なんか飲んで、その上運転までしていたのか?」
窓から入れていた上半身を抜き、ドアロックを外そうとした。
しかし妻は、抵抗した。
「止してよ。こんなの呑んだ内にはいらないわよ。それより、離れてよ。湯西が見ていたら、どうするつもりなの」
と反撃にでては、夫を追い払おうと、拳を振り上げる。
この家の喧嘩ははげしい。いつものことだけど。たまには包丁が飛ぶこともある。
「湯西が何だ。それに、酒を飲んで運転だなんて。何を考えているんだ?」
「うるさいわねえ。私はあんたと違って神経が細いの。狂言誘拐だなんて言われて、シラフではいられないの」
「何が、シラフではいられないの、だ。狂言誘拐の張本人はお前だろうが」
「まあ、まあ、まあ」
後ろから沙耶さんが、オジさんの腕をつかんで車から引き離そうとした。
警部たちは、遠くに車を止めたまま、誰も近づいてこない。
沙耶さんだけは、どう見ても刑事には見えないし、それにオジさんと同行していたから、犯人が見ていても、秘書くらいに考えてくれるかもしれない。
だが、警部が出てくるのはまずい、と判断したのだろう。
そんなことをしても、海野宿で湯西さんが見ていたら遅いとも思うのだけど。
川中島の古戦場跡は、あちこちに松の木がはえる、まばらな林である。
古びた鳥居が車のライトの中に浮かび上がっているが、他はよく見えない。
淡い月の光では、遠くまでは見えない。ただ不気味な風が吹きぬけて行くだけだ。
「ベンセイ・シュクシュク・夜川を渡る〜〜」
突然、車の中でオバさんが、低い声で唄を歌いだした。
オジさんが、ギョッとした目で、車の中を覗きこむ。
「止めろ! 詩吟なんか。こんな時に何を考えているんだ」
父親が潜めてはいるが、鋭い声で叱る。
しかし、母親は止めない。
「九月の十日。上杉謙信は、どうしても武田信玄の首を取ろうとして、一人で武田勢の中にきり込んでいったの」
運転席とは反対側のドアから外に出て、声も高くしゃべりながら、月夜の中で歩きはじめた。
オジさんが慌てておいかけ、制止しようとする。
「だから、何だって、言うんだ。こんな時に、何を言いたいのだ? 帰ってからじゃだめなのか?」
「何が『何を言いたいのだ?』だわよ。こんな簡単なことがわからないなんて、最低だわ」
「ああ、分かったよ。どうせ、お前のことだから、これだけはやり通さないと、オーディションには受からないというんだろう」
父親が大きく両手をふりあげると、母親の目の色が変わった。湖の底の色になった。
「違うわよ」
「は?」
「違うの。私は、自分のためにやっているの。あのねえ、人間の一生に何回チャンスがあると思うの。一回あれば良いほうよ。私はねえ、今まで生きているって感じたことはなかったの。でも、今、生きているって実感しているの。誰に何を言われたって途中で降りる気はないわ。私は六年間、あちこちに手を伸ばし、監督に付け届けをして、勇気を売り込んできたんだから。これからは壁を超えてゆくからね」
オバさんが僕を真正面から見据えて言いきった。
――僕が警察に協力しているのを見ぬいているのか?
一瞬、背中に寒気が走ったが、僕だってここで降りるわけにはいかない。
反論のかわりに、一層強く睨みかえしていると、オジさんが口を挟んだ。
「もう。お前はいつもそうだ。いつも自分中心で、勇気のことなんか」
「違うわよ。どうせあなたなんかには分かるはずないけど」
「ああ、どう転んだって、分からないし、わかろうとも思わない」
オジさんが怒りにまかせ、片手を振り上げた時、二人の間に黒い影が走った。
「ミャーオ」
二人の中に猫が飛び込んでいった。
「ミリエル」
沙耶さんの掠れ声が夜の空気に響き、オバさんの頬には、細い爪の跡が一筋残っていた。
2
数分後、僕らの車は、再度善光寺に向かって出発をしていた。
今度は、父親が一台目を運転していた。
母親は助手席。僕は二人の行動を見張る必要があるので、後部座席にいた。
結局、二人の喧嘩は、ミリエルが飛び込んできてくれたおかげで打ちきりになった。
沙耶さんが、「この猫は、時々何を考えているかわからなくなることがあるの」と囁いたのをきっかけに、二人の喧嘩熱は一気に冷めたのだった。
まるで、ミリエルが中断してくれたようだった。
それはとも角、善光寺までは、なんの喧嘩もなくやってきた。
と言うか、一言の会話もかわさないまま到着してしまった。
善光寺の周囲は、覆面パトカーと私服の刑事によって厳重な警戒網がしかれていた。
一キロほど後ろからは、ラジオ局の車が追いかけてきていたようだった。
その車から放送された情報により、宿坊の周りはかなりの人だかりがしていたが、仲見世と駐車場や寺の中心部は、やじうまは追い払われていた。
父親は、東側の表参道から侵入し、大本願駐車場で、車を停車させた。
「何で、こんな所で止めるのよ。犯人からは何の連絡も入っていないじゃない」
早速、酔っ払いが、噛みついた。
「だからって、ここから先は歩道じゃないか。幅は広いが宿坊や土産物屋ばかりで、すぐ先には仁王門があるし、結局そこでUターンするしかないじゃないか」
オジさんがダッシュボードの中から案内図を取り出した。
それを受けとってみると、たしかに、仲見世通りは仁王門の先、駒返り橋まであるが、その先には山門もあって、車は行けない。
その先には広場と本堂があるらしい。
土産もの屋はシャッターをおろしているが、宿坊は電気が灯っていて、明るい。
さすがに人通りはないが、二階の窓などから覗いている人は多い。
「どうすんのよ。これから先。こんな所で止めても、先に進みようがないじゃない」
酔っ払いが黄色い声を出した。
「どうするって言ったって、ここから先は車は禁止なんだから、仕方がないだろう」
オジさんが乱暴にドアを開けた。
「じゃあ、犯人からの連絡はここでずっと黙って待っていろって言うの?」
「さあ、どうかね。俺の考えでは、主犯はお前だから、お前が指示を出さなきゃ、湯西は次の無線を入れられないだろう。湯西は、気の小さい男だからな」
オジさんはじっと妻をネメつけた。
しかし、妻は、表情を見せない顔で、左の窓の外を見たまま、鼻をかいていた。
夫はたたみかける。
「つまり、俺がここにいては、湯西に指示を出すことができない」
「だから?」
「だから、ここで三十分くらい待機して、俺と星矢(せいや)君がトイレにでも立ったすきに、お前は無線で連絡を入れる」
「あーら。それなら、あなただってできるわ。ちなみに私の考えでは、あなたが主犯なんだから、今の推測をそっくりそのままあなたにお返しするわ。そのときの実行犯は赤坂さんなんだけど」
「お前は、なあ」
またしても喧嘩になりそうになった。
僕は、あわてて二人の間に入った。
「待って」
二人の手が空中で止まった。
「僕が犯人なら、わざわざここで無線連絡なんかしなくても、実行犯から連絡してくるようにストーリーを書いておくけどな。そうすれば」
そこまで言った時だった。
前の席のアマチュア無線に入電のコールがあった。
「CQCQ。こちら」
無線のスイッチは、さっき停車したときから入れっぱなしになっていた。
三人とも、一瞬で無線に耳を傾けた。
無線の声は一度オープンリールに録音されて、故意に遅回しがされているのか、ひどく低い声に聞えた。
「車を降りて、無線と身代金の入ったボストンバッグを持って、本堂裏の真田家の供養塔に向かえ。五分以内だ」
湯西さんの声かどうかは、分からなかった。
もっとも、普通の声だったとしても、聞いたことがないから、分からないが。
――しまった。
僕は激しく後悔した。
これじゃあ、まるで僕が主犯だと思われてしまうじゃないか。
おまけに、さっき停車した時、反射的に僕の無線のスイッチも入れたままだった。
つまり、僕らの話の内容は、警部に筒抜け?
最悪じゃあーー。
だが、僕の心配は必要なかった。
オバさんが、急に叫び声をあげた。
「うっそう〜〜〜〜。こんな大きなボストンと無線を持って、私一人で歩けっていうの? そんなの絶対に無理よ〜〜」
だが、父親はさっさと無線をかかえて降りる態勢になった。
「何をバカなことを言っているんだ。俺たちが三人で運搬車に乗ったことなんか、当の昔に実行犯は知っているさ。だから、一人づつ無線機とボストンを持てばいいんだ。星矢君。君も来てくれ」
「何で――? なんで、実行犯がそんなことを知ってんのよ〜〜。海野宿を出発してからは、報道管制をするって、警部が言ったじゃな――い」
考えの甘い母親が叫んだが、父親は、さっさと車を降りようとした。
「待って。車のキーだけは差したままにしておいて。私の勘では、絶対に戻ってこいって指示があると思うから」
冷たく母親は命令した。父親は一瞬考えて、カギを抜かずに出て歩き出した。
「待ってよう。私にだけ説明してくれないの〜〜? なんで実行犯はこっちの動きを察知できるのよ」
さっさと早足で歩きだした夫の後を、千鳥足の元女優さんが追う。
ハイヒールで、ボストンもずるずると引きずってゆく。
転びそうになるのを黙ってみているわけにもいかず、僕は、後ろから手を伸ばしてボストンバッグを手に持った。
「阿呆か、お前は」
すでに十メートルくらい先に行っているオジさんが大声を上げる。
「どこの世界にみすみす報道を途中で止めるラジオ局がある。大スクープなんだぞ。警察の一キロ後方から、全部の動きを報道しているに違いないんだ」
「どうせ狂言だと言われているしね」
オバさんが自虐的に言葉を挟む。
「いや、マスコミは自粛しているかもしれない。だがアマチュア無線家が、集まってきていれば、市民放送をしているに違いない」
「そんなあ、勇気の命はどうなってもいいって言うの〜〜」
本気なのかどうなのか、元女優が、はらはらと大粒の涙をこぼした。
僕らは、本堂脇の藪にたむろする鳩を追い払うように境内を走り、裏の真田家の供養塔まで走った。
周囲は暗い。後ろの宿坊のあたりは、明るいが、ここは辺は、月の光で、ようやく物の形が見える程度だ。
でも、目は暗闇になれているので、つまずくことはない。
彼岸花やススキやムクゲの花も見分けられる。
3
「あーあ、まるで、お戒壇(かいだん)巡りをしているみたい」
母親がスットンキョウな声を上げた。
戒壇巡りとは、本堂の中の暗闇廊下を巡ることである。
僕らの数メートル先、供養塔の向こうでは、父親の潜めた呼びかけの声がする。
「どこに湯西はいるんだ――?」
母親は、極めて低い声で、僕に囁く。
「だから、こんな所にいる訳がないじゃない。どうやって受け渡しをしようっていうのよ。どうやったって掴まるに決まっているじゃん。絶対に車に戻って、野尻湖のほうに向かえっていうわよ」
――なかなか鋭い。
僕は、生まれて初めてオバさんの意見に賛成した。
後ろのほうからは、かなりの数の私服の刑事が歩いてきて、本堂の脇や周囲のまばらな林のなかにまぎれこんでいるのが見える。
すでに宿坊の野次馬たちも、ざわざわとした異様な雰囲気に、我慢ができなくなったようで、本堂の周囲のわき道や仲見世の通りに三々五々歩いてきている。
もう警察が抑え切れる状態ではない。
善光寺全体がうわ――んと言う低い海鳴りにも似た唸りに包まれているようだ。
僕が耳をすますと、千鳥ケ池のほうで、ぱちぱちと花火のはじけるのに似た音がした。
「何あれ?」
他の人間も気がついたようだった。
派手なバクチクの音を響かせながら、暗い道をリヤカーが勢い良く走ってきた。
リヤカーとは、農作業などでは良く見かけるゴムタイヤのついた車で、上で花火が勢いよくはじけていた。
「犯人はあっちだぞー」
何人かが叫んで走り出そうとする。
「止めてくれ、子供の命がかかってるんだ」
父が必死に制止しようとすると、忠霊殿と呼ばれる四重の塔のほうから男の声がした。
「そこに身代金を置いて、立ち去れ――」
聞いたこともない男の声だった。
「誰だ――」
オジさんが大声を上げてた。
全員が視線を動かすと、父親に向かって変な男が襲ってゆく途中だった。みすぼらしい服の男だった。
「実行犯だ。取り押さえろ――」
警部が叫ぶ。
本堂の影からは、刑事たちがパラパラと走りだす。
それにつられて、わき道で見物をしていた野次馬が、我慢できなくなって、一斉に本堂裏に走り込んできた。
「待てーー。湯西かー―?」
「違う。俺は頼まれただけだー―」
父親の声とみすぼらしい服の男の声が交錯している。足音が乱れる。
僕が、動こうとしない母親を振り返った。
母親は、強く僕の袖をひっぱって、本堂の面の方に走り出そうとしていた。
「急いで走って。あいつらに悟られないように、足音をたてないで」
すでに靴を脱いでいた。
僕は、思いっきりひっぱられて、何も考えられずに、がむしゃらに後に従った。
母親は、ボストンバッグをもっているとは思われない素早い走りだった。
野次馬が本堂の向こうから走ってきていたが、誰も僕らの顔は知らない。大混乱になりかけていた。
ただ、人ごみを掻き分けて走る僕らを、怪訝な目で見ては、本堂裏に向かって走ってゆくだけだった。
しかし、沙耶さんだけは、しっかりと僕らの尾行をしていたようだった。
「待って。どこへ行くのよう?」
夜気を引き裂いて遠くまで突きぬけるような声だった。
野次馬の目が一斉にこっちを向いた。
本堂脇から、野次馬を掻き分けて、沙耶さんが追いかけ始めていた。
「止まらないで。走れ」
オバさんが命令した。その時には、すでに僕らは仁王門の数メートル前まで達していた。
僕はひっぱられるままに、仲見世とおりを走りぬけ、駐車場にかけこみ、車に飛び乗った。
車のキーは差したままになっていた。
息もつかずに、オバさんがイグニッションを回した。
さっきの千鳥足が嘘のように、一連の行動をテキパキとこなしていた。
――やはり、元女優。
駐車場は空いていた。
車は急発進した。僕の体は、ドンと後ろのシートに叩きつけられそうになった。
鮮やかなハンドルさばきで、車は、駐車場から太い通りに滑りだした。
外の景色が遊園地の回転座椅子から見たように激しく丸く流れ去ってゆく。
その頃になって、ようやく沙耶さんが駐車場の入り口に到着した。
僕は、そっと自分用の無線機のスイッチを入れた。
オバさんに聞えないように、イヤフォーンを装着した。
警部たちの無線が、銃撃戦のように交錯していた。
道路を全速力で滑るヨットさながらに走る車の後ろを見ると、どこから飛んできたのか、アルミ製の洗面器がコロコロと転がってゆくのが見えた。
4
僕は、ようやく冷静になって、無線機に意識を集中した。
襲ってきた男は、金で頼まれたと言ったらしい。頼んだのは四十歳くらいの男だとか。
「星矢(せいや)聞いているんだろうが。オメーまでが狂言誘拐に加担してどうするんだ。戻れ――。磯田、オメーがちゃんと見張っていないからだ。それから、あの男は第三者だ。千鳥が池の側にタイマーでリヤカーをセットし、自分も叫ぶようにたのまれたっちゅうのは、本当のようだ。星矢戻れ――」
警部が怒鳴っていた。
沙耶さんも怒鳴っていた。
「あーあ、高田と喧嘩になっちゃった。踊らされているのになぜ気がつかない。日本中に警察の失態がバレちゃったじゃない。バーかみたい。やだやだ。どうせ狂言なのに。ここで、一回あたふたさせて、今日のところは中止にさせる。そして後日また、とか言いながら、今夜にもまた二回目の要求がくる。そのときはこっちの体制が整っていないから、最小限の人数で追跡。そして撒かれて、身代金は奪われる。子供は帰ってきて、家族そろって涙ながらの記者会見。訴訟は打ち切り、示談、に決まってるんじゃ――」
キキーー!
耳を聾するブレーキ音が響いた。
反射的に前を見ると、本道の真中をバスが走っていた。
キーー!
またしても、ブレーキ音。しかし車は横に流れていた。タイヤが横滑りしている。
いつからか雨が降っていたのだ。
「キャーー!」
僕は自分の悲鳴を、他人の声と同等に聞いていた。絹を裂くような細い声だった。
オバさんがまたまたまた急旋回したのだ。
ズゴ。
鈍い音を立てて、僕の頭は車のドアに叩きつけられた。
眼の奥に火花が走った。
一瞬だけ気を失ったが、すぐに気がついた。
車は、さっきの門前の広場からかなり離れた道路を走っていた。
雨が激しくなってきていた。
母親は、一回、幹線道路を離脱し、わき道でUターンして、アクセルに片足をのせて、大きく気合を入れた。
「オバ、オバさん、何をしようというの?」
「煩いわね。ガキは黙っていなさい。あたしに任せておいて」
オバさんの目は座っている。
初めて見た目つきだが、これは座っているとしか言いようがない。
僕らの車の前を誘拐劇の起こったことを知らないトラックや車が、ゆっくりと通りすぎてゆく。
色の褪めたバスが通過した時だった。
母親は一呼吸入れ、アクセルを踏んだ。
タイヤが耳障りな音を立て、脇道から幹線道路上のバスをめがけて突っ込んでいった。
「止めてーー」
女の子のような悲鳴を上げる僕を無視して、オバさんがアクセルに力を入れた。
鼓膜を聾する派手なブレーキ音が響いた。
オバさん家(ち)の車は、バスの鼻先を掠めて、幹線道路を突っ切った。
そして、急ブレーキをかけた。
「馬鹿やろう!」
罵声が響いた。
同時に、僕らの車は四十五度横滑りして止まった。
バスの運転手の目がゾンビ以上の大きさに開かれた。
顔の筋肉が面白いくらい引きつっている。
バスの運転手は、急ブレーキをふみ、ハンドルを目一杯右に切った。
バスは、路肩に乗り上げて、ゆっくりと横転しそうになりながら数十メートルを走り、またゆっくりと元の姿勢に戻った。
噴水のように水滴が舞いあがった。
鉄の塊がこすれあうような重い地響きが伝わった。
まだ慣性で移動していたバスが、赤いポストにわき腹をこすりつけて、やっと停車した。
数メートル上まで舞いあがった水滴が、静かにその上に落ちてくる。
投げ出されそうになった運転手が、ハンドルにバウンドしてシートに跳ね返された。
警笛が鋭く鳴った。
運転手はもう一度リバウンドし、頭をフロント・ガラスに打ちつけて失神した。
小さい赤い点が、ひしゃげた鼻を中心に狭く飛んだ。
速度がのろかったせいで、鼻血だけで済んだようだ。
車輪がカラカラと乾いた音をたてた。
「大丈夫か?」
誰かに強く肩を叩かれて目がさめた。
僕の体は善光寺からすこし離れた道路のブロック前に投げ出されていた。
オバさんが車を急旋回させたときにドアから投げ出され、頭を打って失神していたようだった。
周囲を見まわすと、オバさんちの車はなかった。
5
翌、早朝。まだ暗いうちだった。
多分、数時間後、40Mhzに設定してある警部の車のアマチュア無線が入電を知らせた。
「みんなはどこにいるの?」
細田オバさんの声だった。
「どこにいるんだ?」
受信とは別の、送信にセットしてある無線に、警部さんが叫んだ。
しかし、向こうからは、情けなさそうな細い声がするだけ。
「ここは山の中なの。周囲には誰もいない。誰かくる――」
「何か、目印になるものはないんですか? 身代金はどうしたんですか? それよりも、なぜ、善光寺で勝手に消えてしまったんですか? あんなことをしたら、誰も信用してくれなくなってしまいますよ。帰ってきてくださいよ」
「だって、車に指示があるに決まっているもの。だから、私は車に戻ったの。そしたら、案の定」
だが、その直後、「キャー―」という悲鳴と、すごい衝撃音が響いた。
そして、数分後、「ママ――、ママ――」と、勇気の悲鳴が入った。
「オバさん。オバさん。勇気。どこにいるんだ――」
僕が叫んだが、無線には、それ以上、何も音が入らなくなってしまった。
数分、全員が黙って聞いていたが、ついに警部が叫んだ。
「無線はまだ生きているぞ。すぐに逆探知して、直行だ」
逆探知をすると、無線は、菅平からだった。
菅平に細田家の別荘があると聞き、僕たちは直行した。
夜明け前で、崖の途中から見ると、霧が森の下の方まで降りていた。
ヘッドライトの中に急に熊でも現れそうな不気味な雰囲気が漂っている。
僕は警部の車に同乗して菅平に向かった。
車は、菅平の牧草地から森の中の、細い道を分け入って走った。
道路脇には、時々、廃屋や牧場や温泉宿が見えた。
オバさんちの別荘がある近辺までくると、警察の車は、幾つもの方向に分かれた。
警部の車は、別荘に向かった。
別荘入り口付近の道路には、オバさんちの車が放置されていた。
僕と警部の乗った車が一番乗りで発見した。
僕は三叉路で警部の車が停車するのももどかしく、ドアを空けて、まだ暗い中に飛び出した。
夢中で車に近づいて懐中電灯を照らすと、中には毛布にくるまれた勇気が眠っていた。
「勇気」
無意識でドアを開け放ち、思わず強くだきしめた。
泣きつかれたのか、涙の跡が残る頬のまま、勇気はぐっすりだった。
「勇気、勇気」
数回揺り動かすと、やっと勇気が目をさました。
「あ、お兄ちゃん」
勇気がまだ焦点の定まらない眼で、僕を見返した。
「オバさんは、どこ? 怪我はないのか? 湯西さんはいないの? 赤坂のオバさんはいないの?」
立て続けにいくつかの質問をしたが、勇気は、ぼんやりとした目のまま、ぼー―と僕を見返しているだけだった。
後ろからきた警部が静かに声をかけてきた。
「そんなに幾つも質問したってわかるめえよ。それより、おなかでもすいてねえか?」
警部が僕の肩越しに、やさしく勇気の頭をなぜると、やっと勇気が口を開いた。
「おなかすいた。昨日の夕方から何もたべてない」
「何が食べたい? ハンバーグでも何でもオジさんに買ってきてもらうから。」
僕が再度強く手を握ると、勇気は小さい声で応えた。
「卵かけご飯か、醤油バターご飯。お兄ちゃんの家で食べた奴」
やっと少し頬に赤みが戻ったので、また思いきって聞いたみた。
「オバさんはどこ?」
しかし、その質問を耳にした途端に、勇気の顔から音を立てて血の気が失せた。
(続く)
作者注・この小説は完全なフィクションであり、登場する名称、団体などは、現実のものとは一切関係はありません。
追伸、オジさんとかオバさんが多すぎて鼻についたので、父親とか夫とかに代えてみましたが、返ってわかりにくくなったかも。
今週末はアップができるか不明なので、Yahooの分は前倒しでアップしておきました。アクセスは唐沢通信2です。