由美姐、30,31,32回目

粗筋。アチキ(小夜)は由美姐に命じられて、マトリの仕事をすることになりやした。
横浜の難破船でシャブの密売が行われたようで、売ったほうのベトナム人と、買った方の山城組の若頭が撃たれて死んでおりやした。
そこへこっそり忍びこんだマトリの一人は海へ落ちて死に、もう一人は瀕死で湾岸署に船で逃げ込んだのでございやす。
アチキは、やましろ組の賭場へ証拠をつかみに潜入せよと姐さんから命じられやした。
そこで、やましろ組の賭場の行われているビルのそばの電話線を切って、電話の修理を装って潜入したのでございます。で、ひやひやしながらも、なんとか盗聴器を設置して脱出いたしやした。
家に帰ると、やましろ組から、トシを誘拐したっつう手紙と手の指が送られてめえりやした。そこで県警に連絡して、身代金運搬の準備をいたしました。

(30回目)
    十三

でもって、その夜、深夜。
県警の方々が、逆探知の装置なんぞを設置して、一旦帰ってしまわれた後。
 何とかせねば、と思いながら、ミエの写真に手を載せて、沈思黙考しておりやすと、いきなり、緑色に濁った湖の中に沈んだような感覚に教われました。
「あ、な、何?」
言いかけた時に後ろから肩を叩かれました。
後ろを向くと、背の高い女性が立っていやした。
荒れ狂う冬の嵐に遭遇したかのように髪を際限なく振り乱し、皮膚のあちこちが溶け始めた女性でござんして、全身がびしょ濡れだったのでおます。
そこは、泥色から青みどろ色にまで、激しく変化して水滴が際限なく降っておりました。
言い換えれば、藻に覆われた沼の底のようなところでした。
アチキは、本能的に足元を見ました。
女の爪先は床に接地していなかったのでございまする。
紫色の血管を縦横に走らせた脚は斜めになり、床から一センチ上で揺れていました。
難破船の帆のように破れて泥と藻に覆われたグリーンのドレスが、赤黒く血で染まり、血と水を滴り落としていたのでありんす。
特に首から上は酷い状態で、首の途中が細く横に括れ、周辺の皮が捲りあがり、口からは墨汁のようなどす黒い血が流れ出しておったのです。
眼球と舌が異様にはみ出していました。
絞殺されて腐敗しかけた女性でございました。
女の周囲も水で覆われているように、体も髪も服もゆらゆらと浮遊していたのです。
背筋を一筋、冷たい水が落ちていきおりました。
透視対象物は周囲の人間とまったく変わらない質感を保持していました。
ただ現実にはない状態で立っているから、普通じゃないと分かるだけで。
アチキが水の中で後ろへ逃げようとすると、幽霊がゆっくり眼を開いて、恨みのこもった顔で片手を差し伸べやした。
目の前の幽霊は攻撃的でござんした。
この世の人間を自分の世界に引きずり込もうとしていました。
北極の氷以上に冷たい女の指が伸び、耳全体を押さえた指を割り、回転する錐のように内耳に侵入してきたのでござんす。
映画『エイリアン』の変態途中のようなビロビロの指でおました。
テロリと濡れて、耳の壁に冷たく張り付いて来るのでありんす。
「ま、待って。いきなり、現れても、困るがな――」
サイコメトリングでごさいましょうか。
でも、それなら、普通、まずは遺体に結びつく場所か物体が現れるのが普通なのに、予想外のことでございまする。
恐怖にかられ、干からびた叫び声が漏れ、体中にじっとりと冷たい汗が滲みおりました。
同時に天井からポタリポタリと淀んだ水が降ってきたのでございます。
しかし、これも現実ではないと察知されたのです。水の落ちる音がしないのですから。
斜めに浮いてる女が何かを訴えたそうな目を開いて、苦しそうに手を差し出しました。
纏われている服は刻一刻と変化し、ボロボロの布になりつつあったのでございます。
「待ってよ。すこし落ち着いて。こっちへ来ないで」
アチキは幽霊に語りかけ、幽霊の気持ちを和ませようといたしやした。
ですが相手はあの世に引きずり込みそうな勢いで手を伸ばしているのでございます。
喉からは、張り付いて出てこない叫び声が迸{ルビ=ほとばし}り出ようとしておりまする。
布の先から水が滴り落ち、暗い室内で恨みに燃える瞳が音を発しそうに明度をました。
腐った緑色に変色した服には、細かい水中の虫がびっしり張り付いていまする。
緑の藻が絡みつき、ゆらゆらと揺れていました。
「お願い。ここから出して――」
女の唇がほとんど見分けられないほど微かに動いて、言葉らしきものを押し出しよりました。
「待って。いや――、アチキを放して。話せば分かるって」
恐怖にすくみあがったアチキは両手で耳を抑えつつ、口と眼では懐柔しようといたしました。
女は徐々ににじりよってきまする。
アチキも硬直した脚を必死で動かして椅子から立ち上がろうとしました。
何とか数ミリ動いた拍子に椅子から転げ落ちてしたたかに膝を打ったのでございますが、構っていられませぬ。
この女につかまったらあの世に引き込まれまする。直感がそう告げています。

   *

読者「ストップ。またストップ」
作者「今回は、おまはんかいな」
読者「そや。こりゃ、どういう風の吹き回しじゃ。いきなりサイコメトリングとは」
作者「だから、そういう才能があっただけじゃ。今まで黙っておったが」
読者「違う。違うな。思うに、夢っつうオチだろ」
作者「…」
読者「ヒット&ラーン。キャッチ&リリースじゃな」
作者「だから、大きい声でいうな」
(31回目)
     十四

 ふと気が付くと、転寝(うたたね)をしておりました。
極度に疲れておりましたんで、写真に手を載せたまま爆睡していたのでございます。 
やっぱり夢だったのでありんす。
 アチキは急いで姉貴を起こして、今のことを姉に話しました。すると、姉は、森田を起こしました。
森田は、もう湾岸署の医務室を退院していて、うちに隠れておりました。
「ミエが知っていそうな沼はないか?」
つまり、こう考えたんでございます――ミエが裏切ってコカインを奪ったまでは良かったが、山城組に見つかって始末され申した。始末されたのは逃げていった先で、沼の近くだった。そして、殺されて沼に沈められた。夢に見たのはミエの死体に違いない――。
 彼は暫く考えておりましたが、ある言葉をポツリと吐きました。
「昔一度、相模湖の近くに行った時、道の傍に汚い沼があって、そこなんか、何を隠しても簡単に発見されないわね、とミエが言ったことがある」
 また少し考えて、つけたしました。
「そこは、細い道路の沼」
「道路わきの沼なんだな」
 警部が鋭く繰り返した。
「場所は相模湖から細長い川になって、傍には南に伸びる細い道があって、そこの脇」
 警部が地図を広げやした。 
「相模湖か。そばに西洋のお城のようなホテルがある。あるある。湖から南に伸びる道の脇のどこかか」
大きい机の上では、三人の部下が協力して神奈川県地図を広げ、手分けして探し始めました。
該当する場所を特定するのはそれほど難しくはなかったです。
道の出発点は相模湖。
傍には川が流れておりましたから、細い道は県道山北藤野線であると特定されました。
県道山北藤野線は相模湖から南に延びておりやす。
そばには秋山川が流れ、途中には神奈川カントリークラブや五感の湯、和棹美術館などがありまする。
大きい地図を持ち出し細部を検討した結果、県道の途中に小さい池があることが判明しやした。名前はなし。
場所は藤野町・杉地区でござんした。

   十五

 早速相模湖まで車を飛ばしやした。
 一時間ほど車を飛ばし、現場付近に到着すると、相模湖から南に下る道があり、少し先に沼がありました。
周囲は、崩れかけた土塀のある家だとか、壁のはげた土蔵なんかがそこここに建っておりやした。
 ほぼ真っ暗でございやす。
 アチキと姉貴の到着より先に、県警のお兄さんたちが捜索を開始しておりやした。
 水の中に入っているのは、胸までの長いゴムの服は着ていまするが、すっかりずぶぬになった菅原警部の部下の刑事一号(ゼナ)と二号(ウインダム)でございやした。 
そして、池の端で極めて小さい懐中電灯を持って潜水夫や部下を指揮しているのは、胴長短足でおなかが出た菅原警部でした。
生活安全課からも応援が来ておりました。刑事三号と四号のお二人さんでおます。
三号は、鋲の沢山ついたジーンズのジャケットに、穴をあけたGパン。
四号は、このまますぐにどこぞの組に潜入せよと命令がきても大丈夫な感じの、黒のジャケットとGパンでございますが、ジャケットの裏地には派手な龍の模様が入っておりますし、Gパンのポケットにも銀の龍の刺繍がしてございます。
ちなみに、二人ともまだ三十台前半で、顔はイケメンでございます。アチキは、Gパンデカと龍の刺繍デカと覚えやした。

まるで沼の底ざらいしておるようでございます。
誰の死体もなく、棄てられてさび付いた自転車だとか、箱だとかペットボトルだとか、ゴミばかりが魚掬い用の網にかかってきたのでございます。
沼の水面の上は暗く、懐中電灯の指す輪の中だけが明るく光っております。
しばらくすると、自分も心配でがまんできなくなったのか、森田自身も車でかけつけてめーりやした。
そして、しばし眺めておりましたが、ついに、反対側から森田君が、自分でも入り始めました。
そっちは懐中電灯を指すものもいないので、真っ暗でして、自分の頭のペンライトだけを頼りにそろそろと足と竹で捜索をはじめております。
しかし、数十分間、長い竿のようなものでさらってゆくと、ついに、何かがあったと声をあげました。
彼は、水の中から、泥に汚れた袋を持ち上げたのでございます。
水浸しのどす黒い緑っぽい布にくるまれて、何箇所かを紐で縛られているものでした。
彼が興奮して、大声を上げ、手を上げますると、先には、四袋に別れて、それらを長い紐で結んだものがついておりやした。
コカイン状の物の入った袋が出てきたのでございます。
それぞれの大袋の中には、十グラムづつに分けた小袋がどっさりと入っていました。
卸の段階で、小袋に分けて入れるなんざ、几帳面な奴だったのでございやす。ベトナム人は。
さあさあさあさあ、大変でございやす。
早速、姉貴が小指の先の半分ほどを手のひらに取って、持っていたストローで吸い込みやした。
数秒すると、がーんと後ろへ弾き飛ばされました。
衝撃的な衝撃を味わったようで、しばらくカーッと言って頭を抱えておりました。
が、やがて、数秒してから、「上物だぜい」とおっしゃいました。
アチキのサイコメトリングならぬ、夢見が当たったんでございます。
 これには正直ぶっとびました。
他の誰よりも、アチキ自身が信じられぬ思いでした。
しかし、と言いますか、だからといいましょうか、兎に角、その後、皆から、サイコメトラーの才能があるとおだてられ、手伝いを続行する決心をしたんでございやす。
 
 第三章
(32回目)
   一

その次の早朝、いや、すでに日付が変わっておりやしたから、同日の早朝六時。
アチキのケータイに脅迫電話がきました。
トシは生きていたようでして、開口一番、ケータイを取り上げられちゃったようと泣いたのでございます。
アチキとしては、そんな小さいことよりも、生きていたことだけで安心して、その先の情報を聞こうとしたのでありんす。
が、向こうは、逆探知を警戒して銃でも突きつけられておるのか、さっさと言いたい情報だけを喋り始めやした。
「それから、今日の午後三時、小夜姐がコカインを持って八景島シーパラダイスまで行くように。水族館の入り口の椅子の下に指示書を貼り付けておくから。お願い。必ず行ってねー」
それだけ言うと、アチキが、おいおいちょっと待ちーなと言うのを無視して電話はぷつりと切れちまいやした。
この時は、まだ、県警のお兄いさんたちも到着しておらず、姉貴も眠ったままで、逆探知用のテープレコーダーも入れようなんぞとは思いもよらなかったです。
なので、ケータイで喋り始めてから後悔したんでありんす。
が、それでも、電話途中から気がつき、向こうの電話の後ろの音から、隔離場所なんぞの手がかりを掴もうと思ったのでござんす。
しかし、あまりにも短くて、何の手がかりもございませんでした。
「やれやれ」
安堵と新たな不安の入り混じった気持ちになりました。
深夜、相模湖のそばの沼まで車で往復して、純度の高いコカインを回収したから良かったものの、これがなかったら、混ぜ物の多いブツを運ばねばならないところでした。
敵さんは、五千万円分の純度の高いコカインを要求しているのでございますから、不純物の多いコカインとなると、二十キロ、いや、四十キロくらいないと、要求に満たないでございやす。
まあ、姉貴がマトリの本部からうちのキッチンに運ばせてあるので、それでも可能ではありんすが。
いや、四十キロとなると、車でないと無理でございます。そうなると、アチキでは無理で。
いやいや、そういう問題ではないです。
純正なブツでないと交渉が成立しないかもしれまへん。
となると、トシの命まで危ないところでございました。

午前の十時。
眠い眼をこすりながら起き上がったアチキは、ゴス・ロリのお洋服に着替えて、県警に電話をいたしました。
本当は、トシからの電話があったすぐ後に、県警に連絡すべきかとは思いましたが、アチキ同様、夜を徹してのコカイン捜査で、県警の方々も寝不足でありやしょう。
それに、電話を受けて、すぐに駆けつけてこられても、アチキが迷惑でありんす。
様々な推測をいたした結果、ひとまず寝て、この時間になってからご連絡いたそうと決心した次第でございます。
県警の方々とて、睡眠不足は鬱病の原因になるでしょうから。
案の定と申しますか、電話の件を菅原警部に報告いたしますと、まずは、テープを入れたかとお聞きになり、入れる暇などなかったと申しますと、ひとしきり、危機感がないとお小言がございました。
ですが、こっちも、初めての経験でそんなプロ顔負けの芸当はできねえんでございやすよう、とすごみやすと、それもそうだな、と納得いたしやした。
連絡をいれるのが遅くなった件も、同様でございやして、一応お説教がございましたが、アチキの耳は、右から左へ抜けてしまい、何を言われたのかは、まるで覚えておりませぬ。

県警への電話から三十分後。
県警のかたがたが三々五々やってまいりました。捜査一課と四課の混合編成でございやした。
生活安全課(四課)からの応援は刑事三号(Gパン)と四号(龍の刺繍)だけでございました。
というのは、常日頃、極道相手にお仕事をなさっている四課の方々からすれば、極道のやり方は骨の髄まで知っておるとのことで、脅迫状を見たときから、「ああ、山城組か、じゃあ、身代金を渡しゃあ、人間は帰ってくるさ」と、簡単にいなされたのございます。
 誘拐犯が山城組じゃあないかもしれないと叫んでおるのは、この時点で、菅原警部一人になってしまいました。
 ついでながら、西島警部はおりません。
警部は、アチキが賭場が盛大に開催されておったと報告いたしますると、そうか、今日も週末だし盛大に行われるな、じゃあ、今日手入れをするか、とおっしゃりました。
ついでに、誘拐の案件は菅原警部の指示に任せるとおっしゃられ、今日は部下だけの派遣とあいなったのでございます。
 
皆さん、仮眠室やデカ部屋の端のソファーなんぞで短い仮眠をおとりになりなすったのでございましょう。
目やにの付いた眼をこすりつつ、シワシワになったシャツであくびをなさっておいででした。
アチキと違って、感情がもろ外にでる姉貴は、五時間程度しか眠れなかったことが不満だったようで、眠気覚ましにエビスの缶ビールなぞをお飲みになっておられました。
アチキが髪を結い上げておりますると、菅原警部がアチキに似た背格好の女子を後ろに従えてダイニングにやってまいりました。
女子の服装は、昨日のアチキが着用していたのと同じ、電話会社の修理の服でございやした。
「彼女の名前はチナ君という」
警部は、フルネームはおっしゃいませんでした。
アチキに対しては、今日は、姐さんスタイルではなくて、普通の女子の格好、それも、目立たない格好をせよとおっしゃいました。
「は?」
意味がわかんなくて、大きく口を開いて、聞き返しますると、菅原警部がおっしゃいました。
「身代金の運搬はうちの婦人警官に変装させてやらせる。一般人に怪我があったら、警察の沽券にかかわる」
「でも、向こうは、アチキを指定しているんですぜ」
 向こうの要求を呑まないと、トシの命にかかわるんでございますし。
 アチキがつっぱねますると、ごり押しをなさいました。
「あのなあ、身代金の受け渡しは、危険が付きまとうんだよ。バイクであちこちを猛スピードで移動させて、尾行の車を撒けと要求するかも知れないんだよ。それから、敵は、人ごみで、強引に奪うかも知れねえんだよ」
「はあ。バイクはあるかも知れやせんが、刑事さんが沢山尾行していると考えたら、普通は、人ごみで奪うようなことはないと思いやすが」
「煩えなあ。万が一の話だ。それから、橋の上か、ビルの上かに上らせて、そこから落とさせるかもしれねえんだよ」
「それなら、よけいに危険はないんでは」
「煩え。強風が吹いていたら、危険だろうが。それに、ビルの端っこにたつんだぞ。想像してみろ。十キロのお荷物を持って、十階建てのビルの屋上の端っこに立つ状況を」